ノーベル文学賞にカズオ・イシグロ氏 英国の小説家
カズオ・イシグロが今年のノーベル文学賞に輝いたということで、あちこちで報道がなされたり、日本での版元になっている早川書房が忙しそうだったり、ちょっとしたお祭りになっているなと感じる。彼は日本人なのかそうでないのかみたいな話はどうでもいいので(というか二年連続英語圏から、というのに驚いた)そのへんの話は置いておいて、彼の語る創作論が興味深いなと思って報道を眺めていた。
この流れで、だと思うが、NHKが以前放送していた文学白熱教室という番組を日曜深夜に再放送していたので見ていた。
日本のどこかで、様々な国籍の学生相手に自身の創作論を報告する、という流れで、55分バージョンと74分バージョンがあるらしいが昨日やってたのは短い方。そのなかでも、小説を書き始めたきっかけの部分が印象に残った。
根底にあった動機は薄らいでいく世界を保存したいという思いだったのだ。
(中略)小説を書くことが私の世界を安全に保存する方法だったからだ。
これまで書いてきたいくつかの小説のうち、ネット上にあげてない短編がいくつかあるのだけど、2013年の冬に書いた「あらかじめ約束された未来」という短編があって、まあオープンにしていないまま語るのも変な感じだが、端的に言うと自伝的な小説に仕立てたつもりの小説だった。
このすぐあとにRaiseさんに誘われて「三月は浮遊する」を小説ストーリーテラーに書くことになり、オファーやイベントがあったらなんか書く、くらいのゆるいスタンスで小説を書くようになった。続けていると言っていいのかは分からないが、まあなんか書いてます、くらいの感覚は持っている。
「三月は浮遊する」の舞台はいちおう高松ということにしているが、ストーリー自体は完全に架空のもので、いくつかの場所のイメージはあるけれど登場させているキャラクターにモデルがいるわけでもなく、思いつくままに書いただけだった。文章レベルでの稚拙さを指摘されつつも、内容自体がわりと評価されたのは素朴に嬉しかった。
「あらかじめた約束された未来」についてだが、「薄らいでいく世界を保存したい」とか「私の世界を安全に保存」という言葉にかなり敏感に反応してしまったのは内緒だ。こればかりはもう、自伝というほど大それたものではないが、学生時代の終わりに経験した恋にも至らないような関係を、できるだけ具体的に書きとめておこうとだけ考えた、青臭い動機だったとしか言えない。
ほんとうにそれ以上でもそれ以下でもないし、この小説に関しては具体的なモデルが存在するわけで、さすがにネットにオープンにするわけにはいかねえな、と思っている。いちおう、クローズドな形で何人かの方には読んでもらって、感想もいただいたりしているのだけれど、そのへんはまあ許してほしい。
言いたいことはなにかというと、「世界を保存」という動機はそれほど珍しいことでもないのだなと思ったということだ。カズオ・イシグロの場合もいくばくかの青臭さがあったに違いないが(谷崎潤一郎に深く感化されたという話もしていたくらいだし)、まあそれでも三作目でブッカー賞をとるのだからほんと大した作家だ、と思う。(そりゃそうだ)
自分の動機が肯定されたというのは大げさだと思っているが、ああそういえば俺も似たようなことを考えて小説を書いたな、ということを思い出すきっかけにはなった。別に小説を書くためにパソコンに向かっていたのではなくって、Evernoteの画面を見ながら記憶をたどって覚えている限りのことを書きとめておこう、くらいの気持ちだった。気づいたらそれが一つの物語になっているんだからおそろしい。予期せぬところから創作というのは生まれるのだな、とも感じた。
「あらかじめ約束された未来」で表現したかったのも、たぶん自分の人生とか決断とかの肯定なのだと思う。そして、違う世界にいった誰かに対する祝福。
こういう未来はあらかじめ決まっていたかもしれないが、だからといってこれまでの過程をすべて無駄にしたくはない(という青臭さ)気持ちを、どうやって表現すればいいかと考えたら自然と小説になっていたのかもしれない。もちろん小説でありフィクションなので、ベースはあるにしても大半は虚構だ。自分が書いたほどに、自分自身の人生は美しいものではないし、それは誰だってそうだろう。
でもまあ、30まで数えるほどの年月になってしまった身からすると(この小説を書き上げたのはまだ23になったばかりのときだった)、それはそれでいいのだと思う。美しくなんかなくたってよいし、泥臭いくらいが人生というものだろう。いつか歳をとって昔の自分を振り返ってみたときに、そこには後悔がつきものかもしれないが、肯定できるものが少しでもあったならば、辛うじて祝福してもいいのではないか。
カズオ・イシグロはなぜ小説なのか、と学生たちに説いたあと、他の表現やメディアでは達成できない、小説にしかできない物語の構築のプロセスを語っていく。
俺がこの領域にたどりつけるなんて思ってもいないが、小説だから表現できることの可能性みたいなものは探究してもよいな、と思った。
とりあえず目下の予定は、第3回半空文学賞である。
カズオ・イシグロが今年のノーベル文学賞に輝いたということで、あちこちで報道がなされたり、日本での版元になっている早川書房が忙しそうだったり、ちょっとしたお祭りになっているなと感じる。彼は日本人なのかそうでないのかみたいな話はどうでもいいので(というか二年連続英語圏から、というのに驚いた)そのへんの話は置いておいて、彼の語る創作論が興味深いなと思って報道を眺めていた。
この流れで、だと思うが、NHKが以前放送していた文学白熱教室という番組を日曜深夜に再放送していたので見ていた。
日本のどこかで、様々な国籍の学生相手に自身の創作論を報告する、という流れで、55分バージョンと74分バージョンがあるらしいが昨日やってたのは短い方。そのなかでも、小説を書き始めたきっかけの部分が印象に残った。
根底にあった動機は薄らいでいく世界を保存したいという思いだったのだ。
(中略)小説を書くことが私の世界を安全に保存する方法だったからだ。
これまで書いてきたいくつかの小説のうち、ネット上にあげてない短編がいくつかあるのだけど、2013年の冬に書いた「あらかじめ約束された未来」という短編があって、まあオープンにしていないまま語るのも変な感じだが、端的に言うと自伝的な小説に仕立てたつもりの小説だった。
このすぐあとにRaiseさんに誘われて「三月は浮遊する」を小説ストーリーテラーに書くことになり、オファーやイベントがあったらなんか書く、くらいのゆるいスタンスで小説を書くようになった。続けていると言っていいのかは分からないが、まあなんか書いてます、くらいの感覚は持っている。
「三月は浮遊する」の舞台はいちおう高松ということにしているが、ストーリー自体は完全に架空のもので、いくつかの場所のイメージはあるけれど登場させているキャラクターにモデルがいるわけでもなく、思いつくままに書いただけだった。文章レベルでの稚拙さを指摘されつつも、内容自体がわりと評価されたのは素朴に嬉しかった。
「あらかじめた約束された未来」についてだが、「薄らいでいく世界を保存したい」とか「私の世界を安全に保存」という言葉にかなり敏感に反応してしまったのは内緒だ。こればかりはもう、自伝というほど大それたものではないが、学生時代の終わりに経験した恋にも至らないような関係を、できるだけ具体的に書きとめておこうとだけ考えた、青臭い動機だったとしか言えない。
ほんとうにそれ以上でもそれ以下でもないし、この小説に関しては具体的なモデルが存在するわけで、さすがにネットにオープンにするわけにはいかねえな、と思っている。いちおう、クローズドな形で何人かの方には読んでもらって、感想もいただいたりしているのだけれど、そのへんはまあ許してほしい。
言いたいことはなにかというと、「世界を保存」という動機はそれほど珍しいことでもないのだなと思ったということだ。カズオ・イシグロの場合もいくばくかの青臭さがあったに違いないが(谷崎潤一郎に深く感化されたという話もしていたくらいだし)、まあそれでも三作目でブッカー賞をとるのだからほんと大した作家だ、と思う。(そりゃそうだ)
自分の動機が肯定されたというのは大げさだと思っているが、ああそういえば俺も似たようなことを考えて小説を書いたな、ということを思い出すきっかけにはなった。別に小説を書くためにパソコンに向かっていたのではなくって、Evernoteの画面を見ながら記憶をたどって覚えている限りのことを書きとめておこう、くらいの気持ちだった。気づいたらそれが一つの物語になっているんだからおそろしい。予期せぬところから創作というのは生まれるのだな、とも感じた。
「あらかじめ約束された未来」で表現したかったのも、たぶん自分の人生とか決断とかの肯定なのだと思う。そして、違う世界にいった誰かに対する祝福。
こういう未来はあらかじめ決まっていたかもしれないが、だからといってこれまでの過程をすべて無駄にしたくはない(という青臭さ)気持ちを、どうやって表現すればいいかと考えたら自然と小説になっていたのかもしれない。もちろん小説でありフィクションなので、ベースはあるにしても大半は虚構だ。自分が書いたほどに、自分自身の人生は美しいものではないし、それは誰だってそうだろう。
でもまあ、30まで数えるほどの年月になってしまった身からすると(この小説を書き上げたのはまだ23になったばかりのときだった)、それはそれでいいのだと思う。美しくなんかなくたってよいし、泥臭いくらいが人生というものだろう。いつか歳をとって昔の自分を振り返ってみたときに、そこには後悔がつきものかもしれないが、肯定できるものが少しでもあったならば、辛うじて祝福してもいいのではないか。
カズオ・イシグロはなぜ小説なのか、と学生たちに説いたあと、他の表現やメディアでは達成できない、小説にしかできない物語の構築のプロセスを語っていく。
俺がこの領域にたどりつけるなんて思ってもいないが、小説だから表現できることの可能性みたいなものは探究してもよいな、と思った。
とりあえず目下の予定は、第3回半空文学賞である。
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