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映画館には間に合わなかったのでまず原作を読み、そして今回映画という順番で視聴したが、原作をかなり「翻案」して映画はオリジナル要素が強くなっている。原作はそうでもなかったが、映画では徹底して銃後の生活「だけ」を映し出そうとする。もちろんナチスの軍人も普通に出てくるが、終盤を除いては軍服を着ていない生活の風景が主眼となっていて、それこそがこの映画のやろうとした「関心領域」なんだろうな、と思うわけだ。
原作のやろうとしたことはむしろ塀の中、収容所で働くナチスの軍人の愚かさや小ささを描写することで、「こんな小物なヤツらにあれだけ多くのユダヤ人が虐殺されてしまったのか?」という感情を読者に喚起させることにあったのだと解釈している。人間的な醜さと言ってもいいと思うが、要は不倫や浮気といったよくあると言えばよくある行為がアウシュヴィッツのような場所でも展開されていた、ということを戯画的に、風刺的に書く意味合いもあったと思う。
だがこの映画はそうしたタイプの風刺をしない。風刺には違いないが、この映画がやろうとした方法は「銃後」をとにかく映像として表現することだろう。家族でののどかな川遊び、車で遊ぶ子ども、妻たちの会話。そうした日常の風景を映し出す。特に途中まではそれだけを映し出すことに注力しようとする映画だ。
途中で「夫の転属」が家族の会話に上がるようになり、妻が念願かなって手に入れた「マイホーム」を放したくない(だから夫にはついていかない)と固執的に主張する場面がひどく印象に残る。それまでこの映画を見ていると、そうした会話すら話題に上がらないほど、戦争や虐殺がきれいに忘却されているからだ。
だからこの夫婦の会話により、結果的に自分たちは「戦争の映画」を見ているのだという思いを強くするし、戦争のただ中にあっても「ごくありふれた幸せ」を願う妻がいたとしても、それは別に珍しいことでもなんでもなかったのだろう、と思えてくるのである。あるいは、子どもたちに絵本の読み聞かせを行いながら一緒にベッドで眠る軍人の夫(父)がいたとしても、違和感がなく受け入れられる映画である。
原作が人間の小ささを風刺的に表現しようとしたのと対比すると、映画はそうした小市民的な彼ら彼女らが戦争や虐殺を構成する一員だった(はずだ)というリアリティを突き付けてくるのだと思う。戦争はそもそも国家が始める行為であり、軍人はその国家の暴力装置として具体的に作動する駒であり政治的道具でしかない。でも実際は人間であり、小市民なのだ、ということを「関心領域」という概念を利用しながら映像表現したのがこの映画だったのだろう。
終盤の会議の場面はこの前見たやつかな、とか思いながら、ラスト20分ほどでより「戦争映画」の色を濃くしつつ、そしてホラー的にも聞こえる音楽でこの映画は終わる。終盤に急に転回することでザワザワするわけだが、これはつまり「小市民的日常」は戦時下で続くわけがない、つまり「のどかな日常」はやはり空虚である、ということだろう。なぜならば戦争のさなかであり、もっと言えばドイツは近い将来敗戦に向かっているのだから。

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