見:Netflix
映画館に見に行けなかったので代わりに原作を読み、その上で配信で見た映画。栗田科学という小さな会社に勤める山添くんと藤沢さんという若い二人が主人公だ。それぞれが事情を持ってこの会社に転職した経緯を持っている。二人が小さな会社で働く中で、コントロールできない自分の症状と向き合いながら、それでも労働と生活を続けることを模索する。時には助け合ったり、言葉をぶつけ合ったりしながら。
原作と比べるとよく分かるのは、この映画は「リカバリーの場所と、回復のプロセス」を丁寧に丁寧に描こうとした映画だなと思った。多くの人はこの映画を見て「ケア」について考えたようだけど(それは当然だろうし、否定するつもりはない)、「ケア」は関係性に依存することも意識しておきたいと感じた。
もちろんこの映画には主人公二人の関係性や、二人が勤める会社での人間関係、山添くんと元上司との関係、山添くんと元恋人との関係、藤沢さんと介護が必要になった母親との関係、などなど様々な関係性が描かれ、そこでは「ケアする/ケアされる」関係性が多様に表現されている。山添くんと元恋人とのようにうまくいかない場合もあれば、山添くんと元上司との関係性では権力的に勾配がありそうに見えるけれど、フラットに接しようとする元上司の姿が印象に残った。
山添くんの現上司であり社長でもある栗田は、20年前に弟が突然失踪したという過去を持つ。この設定が、小説と比べると映画の中でかなりキーになっており、だからこの映画はリカバリーを描こうとしたのだ、と感じた。また、元上司の辻本は5年前に姉を自死で失っている。はっきりとは明かされないが「労災」というワードが出ていたため、おそらく仕事に起因する自死なのだろうと推定される。ただ弟の失踪も姉の死も、触れられはするが詳しくは明かされない。この映画が描こうとするのはあくまで、遺された人々の回復のプロセスだからだ。
栗田科学がいいのは、単に働くだけの場ではないところだろう。中学生の授業の一環で社員がインタビューを受けるシーンが急に何度も挟まれたりするが、そのインタビューはあくまでストーリーの一部であり本筋ではない。ラジオ体操をしたり、大掃除をしたり、時にはキャッチボールをしたりといったのどかな風景も(昔の会社はそういえば休み時間によくスポーツをしていたらしい)描かれる。この会社には、確かに外部と繋がっているという感覚があり、そして時間の経過がある。
リカバリーにおいても重要なのは、まず外部性である。外部性、この場合孤立しないことが重要と言った方がいいかもしれないし、ピアによるセラピーの「場」が、自分に思わぬ影響を及ぼすこともあるだろう。あるいは、自分が他者に影響を与えるかもしれない(良くも悪くも)。リカバリーは単線的には進まない。たいていの場合はうねうねと進んだり、一歩進んで二歩下がったりするようなプロセスだ。
また、「ケア」と違って特定の誰かから与えられるものとも少し違う。健康な状態に戻すという意味での、「治療」とも違う。リカバリーとは回復に向けた変化を続けることだ。だからその変化の「プロセス」と「時間」が丁寧に描かれる点において、この映画が単に「ケア」を描こうとしたのではない、という感覚を強く持った。
また、現代的な自由主義的個人主義と、リカバリーは基本的に反対にあるなと感じた。個人の意思決定には深く干渉しないことが自由主義的個人主義だとするならば、リカバリーの場合はむしろ積極的に干渉し合う。あなたのことを気にかけてます、というメッセージを発し続ける。傷を負った人が、また別の傷を負った人を救うことだってある。コミュニタリアン(共同体主義)がイメージするほどの明確なつながりではないものの、持続性を持ったコミュニティの場が確かに存在する。この映画には、その場は複数存在している。
孤独や孤立が社会問題化されて久しい。だた同時に個人主義が根強い現代社会において、そうした問題の解決は容易ではないだろう。だからこそ、「仕事や職場という多くの人がすでに関与しているはずのコミュニティだって誰かのリカバリーの場になったり、回復のプロセスを提供できたりするのでは?」というのが、この映画の最も重要なメッセージであり問いかけなのかもしれない。
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