見:イオンシネマ綾川
テレビシリーズをnetflixで見ていたが、途中でやめてしまっていたため映画を見に行くのが少し遅くなった。10月に入ってからテレビシリーズと、昨年公開の外伝を一気に見たことで、この物語の世界観にどっぷり浸ったまま今回の劇場版を見に行けたのはとてもよかったと思う。結論から言えば3度泣いたし、同様に泣いている人が多くいた。公開から一か月以上経ってのこの光景ということは、公開後間もないころはどれだけの人が涙を流していたのだろうと思った。
本編とは直接の関係がないとは言え、間接的にという意味では去年の7月18日に起きたことはあまりいは大きすぎる。まずもってここまで来られたこと自体が一つの奇跡のようなものだろう。それは、作中でヴァイオレットが願っても願っても叶わないかもしれない期待を、ひたすらに愚直なまでに信じ、祈る光景に似ているようにも思えた。このエントリーのタイトルを「追憶の日々と祈りの結実」と表現したのは、まさに彼女の過去と未来を鮮やかに、ドラマチックにつなぐことをこの劇場版が目指してきたからだろうと、率直に感じたからだ。
前振りはこのあたりにして。本編は150分とアニメーション映画としてはかなりのボリュームであり、大きく分けて三つの局面のある構成になっている。まず第一に、テレビシリーズ10話に登場したアンの孫デイジーが、アンの死をきっかけとして彼女に送られた50通もの手紙を目撃するところから始まる物語。テレビシリーズが20世紀前半の社会状況だと想定されるが、それより二つ世代が下ったより現代に近い視点から劇場版は始まるのだ。つまり、ヴァイオレットたちがいた時代よりもずっと後であり、ヴァイオレットの存在自体が歴史化されていることが一つポイントになっている。ここはかなり重要な要素で、ある意味劇場版の主人公はデイジーなのである。彼女が、かつて存在していたヴァイオレット・エヴァ―ガーデンの軌跡を探す旅路が、一種のメタフィクション的構造を作り出しているからだ。
二つ目はユリスとリュカの物語だ。これはヴァイオレットが担当する仕事の話で、クライアントであるユリスは病気のためか、少年であるものの死期が近いことを悟っている。その彼が、両親や弟、そして親友であるユリスにどのような言葉を贈るのか。テレビシリーズでも紡がれていた、表独力で表現できない言葉や感情を、ヴァイオレットが一つずつ汲み取っていく物語だ。
そして三つ目が、ヴァイオレットの物語である。テレビシリーズからずっと追い続けてきた少佐の存在がかすかに観測できたことが分かり、彼女にも選択が迫られる。どのようなタイミングでどのような行動をとるのが適切なのか。少佐の兄であるディートフリートの意向をどの程度汲み取るべきか。そして、少佐自身の現在とどのように向き合うべきなのか。
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長い間彼女は自身のクライアントと対話を重ねてきた。それは心の交流だったと言ってよい。もちろん最初はうまくいかず、社長や同僚のドールに助けられながら歩んできたプロセスである。それは、ヴァイオレット自身が、心を、感情を取り戻していく、一種の精神的なリハビリテーションでもあったと言える(そして同時に、元軍人に対する職業リハビリテーションでもあることが意義深い)。テレビシリーズでもヴァイオレットは誰かの役に立つことで、彼女自身もまた癒しを獲得してきた。彼女が職務を通して流した涙の分だけ、確実に癒しがもたらされていたことだろう。心を、感情を取り戻す過程がこうした相互作用的なものでなければ、ヴァイオレットはどれだけ経験を積んでも感情を持たないドールでしかなかったかもしれない。
そんな彼女だからこそ、改めて少佐と向き合う機会が与えられた。長い追憶の日々を超えて、祈りが結実するかどうか。それは同時に、京都アニメーションにとっても同様だったはずだ。2019年7月18日の惨劇を乗り越えて、ようやく届けられたこの150分の大作は、京アニのスタッフたちにもまた必要とされた癒しがあったのではないか。もっともそれは作中のフィクションを超えた一面ではある。だが、本作の主人公のデイジーが歴史化されたヴァイオレットの痕跡を探るように、京都アニメーションもまた未来を取り戻すことで絶望的な過去を乗り越え、歴史化していく作業が必要とされていたのではないか。
「泣ける映画」という触れ込みでロングヒットになっているのは、それ自体がいいか悪いかはなんとも言えない。もう少し踏み込んでほしいという気持ちは大きい。だが、去年と今年と様々な大きな出来事を経験してきた人たちにもまた大きな、特別な癒しをもたらすことのできる作品であることは間違いない。ufotableの制作した『鬼滅の刃 無限列車編』が記録的な大ヒットを記録する中、ヴァイオレットたちが紡いだ物語と歴史、それを追いかけるデイジーのまなざしに多くの人が心を寄せたこともまた一つの事実である。
『鬼滅の刃 無限列車編』とは全く別の角度から、映画の持つ社会的なインパクトや、物語やフィクションの持つパワーといったものを再確認することのできる、稀有な映画として覚えておきたい。また、制作データが一時失われた可能性もあったことを考えると、この映画はただの奇跡ではない。本当に得難いものを味わうことができたのだと、強くかみしめておきたいとも思う。
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