Days

日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。





見:イオンシネマ綾川

 原作刊行が1992年。自分が小説を読んだのは2003年〜04年ごろで、当時から交流のあった朱空さんを含む他の何人かとBBSで会話をしていた流れで手に取った一冊だった。東野圭吾が一般にブレイクする少し前ではあったが、当時からミステリ読みからはこの小説のトリックが評価されており(とはいえ映画を見るまでかなりの部分忘れていた)、原作は古いものの映像化するにあたってどのような形にするのだろうという好奇心で今回映画館に足を運んだ。

 ある山荘にオーディションと言う形式で7人の役者が集められる。7人のうち6人は水滸と言う劇団の所属だが、主人公の久我だけが部外者として参加を許された(ここに参加するための事前オーディションに合格した)形になっている。オーディションの筋書きとして山荘では毎日一人ずつ死んでいく「設定」になっているが、それは本当に「設定」なのか? そもそも遺体はどこに行ったのか? など「生き残った」参加者に不安を増長させるスリリングな構造を持ったオーディションなのである。

 部外者である久我が山荘で起きる「事件」の探偵役を務めることになるわけだが、久我を演じる重岡大毅が非常にいい。初日の夜、参加者の一人である笠原温子の質問を受けて役者とは殺し合いだと笑顔で語る彼は、料理上手でフットワークの軽さを見せながらその裏には秘めたものがあることを提示する(原作では推理小説マニアという設定や元村由梨江に惚れているという設定があるが、それは省かれている)。今回共演する間宮祥太朗や岡山天音と比べるとパッと見て目立つ役者ではないと思うが、陽の部分と陰の部分を内包しながら魅力的なキャラを演じられるのは重岡の魅力だろう。

 さて一晩に一人ずつ死んでいくという「設定」でストーリーが進んでいくが、2人目の由梨江が殺されたことが分かる3日目から大きく動き出すと言ってよいだろう。最初に死ぬのは温子だが、なぜこの2人が選ばれたのか、部外者である久我には想像がつかないものの他の6人は「なんとなく知っている」という状況にあるからだ。この非対称性があるからこそ、久我が部外者である意味、そして彼が探偵役を務める意味がありそうだということが観客に提示される。他の6人が知っていること、それはこの場には不在の役者、麻倉雅美の身に起きた事故についてである。

 この映画では山荘と言う舞台で不在となる雅美の役を森川葵が非常に好演している。雅美には「演技派部隊女優」と言う設定があるため、それを意識したセリフ回しや表情の作り方をする必要があるわけだが、最後まで観客をうまく導く役をやっていたと思う。雅美には不在であるがゆえの重要な役割がもう一つあるわけだが、その転換(回想シーンで演じる雅美と、不在が解けたあとに演じる雅美)も非常に惹きつけるものがあった。本多雄一演じる間宮祥太朗が表情やせりふ回しなどの点でややぎこちなく演じているのに比べると(そもそもそういう演技だったのかもしれないが)森川葵演じる雅美は、舞台で輝く役者であることがよく分かるのだ。

 さて、このオーディションで仕組まれた動機はなんとなく見えてきた。でもその動機だけでは真犯人を導けない。トリックを見破る必要がある。いくつかの伏線は観客にも提示されるものの、最初の3日間がスピーディに消化されるせいか、もう少し謎解きのヒントとなる時間を事前に用意してくれてもよかったかなという不満は残る。とはいえ、この作品の目指すものが最後の謎解きのシーンに凝縮されていることでどんでん返しとなるカタルシスだけじゃなくて、物語としての面白さを持っているのも事実で、その重要なコアとなる要素は映画でも発揮されていた。

 コアとなる要素とは何か、それはこの映画及び小説の真の動機と言ってよい、「なぜ役者を続けるのか」という点にフォーカスすることにも成功しているからだ。もちろんその動機は人によって違うが、経済的にも社会的にも立場がそう安定しているとは言えない舞台俳優をなぜ自分は続けるのか、続けたいと思うのか、が特に終盤まであまり明かされていない久我や本多、そして雅美から語られる点は非常にスリリングである。

 つらつらと述べてきたが「役者が役者を演じる」というメタフィクション性、そしてミステリーでも重要な要素の一つである動機をクリティカルに展開してまとめることに成功した構造、これこそがこの作品の醍醐味であり、小説とは違う形で映画としても上手くいったと言えるだろう。


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