見:U-NEXT
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U-NEXTにて。日本じゃなくてアメリカがこういう戦争映画を作れるんだという純粋な驚きがあった。1999年のアカデミー賞に複数部門ノミネートされながらも無冠。『恋に落ちたシェイクスピア』や『プライベート・ライアン』、そして『ライフ・イズ・ビューティフル』(いずれも1998年)の影に隠れてしまったのは致し方ないところかもしれないが、この映画の持つ訴求力の強さは、戦争映画におけるヒーローとしての主人公や劇的なストーリーをハナから無視しているところにある。
ガダルカナル島での日本軍との戦いを描いた映画だが、最初の戦闘が始まるまで約45分待たされることになる。171分の長尺映画だからこそできる構成だとは思われるものの、冒頭のノルマンディー上陸作戦で観客を一気に戦場に放り込んで30分近く離さなかった『プライベート・ライアン』とは全く異なるアプローチをしている。ではなぜその45分が必要だったのかを考えてみたい。
まず一つは、ガダルカナル島という島の静けさと美しさを描写するためである。戦地になった島にも当然、現地住民の暮らしがある。そして、生い茂った草むらの中には息づいて生活する昆虫などの生き物たちがいて、空には鳥たちが待っている。この、美しい島を地獄のような場所に変えてしまうのが戦争なのである。少し前に見たアニメ映画『ペリリュー 楽園のゲルニカ』(2025年)ももしかしたら『シン・レッド・ライン』の影響を受けたアプローチをとったのかもしれない。
もう一つは、日本軍を「見えない敵」として描く点だ。いわゆる潜伏作戦を実行していた旧日本軍は、アメリカ軍を「見えないところから迎え撃つこと」にあった。そのため、最初の大規模な戦闘ではアメリカ軍が一方的に敗走する様子が描かれていく。容赦なく、である。しかも、少し離れた場所で指揮を伝える指揮官は「アメリカ軍が勝っている」と思い込んでいる無能な指揮官である。現場で固定電話を抱えながら(まるで携帯電話のように)伝達する兵士がいるのだが、指揮官には彼の言葉が頭に入っていない。敵は日本軍だけでなく、「無能な指揮官」という形で身内にもいたのである。
「見えない敵」だった旧日本軍もずっと見えないわけではなく、やがて攻略されてしまう。その後、捕虜になったり、自害したり、あるいは何もせずじっとその場で座禅を続ける旧日本兵もいる。その姿に戸惑うアメリカ軍たちもまた印象的である。旧日本軍とアメリカ軍の間にある「戦争観」の違い、あるいは「死生観」の違いを浮かび上がらせる。
一応脚本上はショーン・ベンが主役級のポジションを務め、『戦場のピアニスト』に主演したエイドリアン・ブロディも頻繁に姿を現す。ただ、特定の誰かの物語にしていないところもこの映画の特徴だ。彼らはアメリカ軍を代表、あるいは象徴する存在でしかない。どこにでもいた若者や中年男性が、戦争という大義のために戦っている。しかし母国には家族がいて、愛する人がいるはずで、多くの若い兵士は職業軍人を除けばただの一市民だった可能性が高い。しかし前述したように、彼らの人生の価値など全く意味をなさないほど、容赦なく戦場は命を奪ってゆく。
戦争の無意味さや無慈悲さを描きながら、戦争が奪ったもの(現地人の生活や、美しい自然や生き物たち)も描く。戦闘を生き抜いた兵士には「生き残った」という事実が残るだけである。生き残った兵士たちには「普通の人生」が待っているかもしれない。それが唯一、生き残った者へのプレゼントかもしれないが、先のことは誰にも分からない(PTSDに苦しむ可能性だってある)。そう考えると、最終的には無常。それだけが、はっきりと残されているようにも映る、思索的な映画だ。
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