見:ホール・ソレイユ/filmarks
2025年の映画館1本目。最初は去年見た『14歳の栞』のように、あるクラスを定点観測するものかなとぼんやり思っていたが、まったく違うなという感想を持った。日本語サブタイトルに「それは小さな社会」となっているが、英語原題はもっと直接的に"THE MAKING OF A JAPANESE"である。「一人の日本人を作る」とそのまま訳すると露骨すぎるからか、日本語だと「社会」という単語に変換されているが、日本人化する=社会化する、とナチュラルに当てはめるところも十分露骨だなとは思った。
小学生は世界中にいるし、小学校は世界中にあるだろう。しかし、多くの小学校が実践しているのは一人一人を教育することであり、「社会化」しているわけではないと思う。もちろん学校という集団生活を「通して社会化される」ことはあるかもしれないが、それはあくまでプロセスの中でどのように変容、成長していくかという話であり、あらかじめ明確に「社会化する」という意識が世界的に一般的なのかどうかはよく知らない。ただ、日本の学校という場所、とりわけ義務教育の行われる小中学校、いや90%以上が進学する高校をも含んでも良いかもしれないが、間違いなく「社会的な人間」の育成の場所であることは疑いがないと思う。それが現代という時代にふさわしいかどうかはさておき。
前置きが長くなったが、「社会化するための具体的なプロセス」を観察するためにこの映画がチョイスしたのは、「1年生と6年生を交互に撮影する」という手法だ。監督によると、構想は10年前からあり、最初は6年間を通して撮影したかったようだがさすがにそれは難しいと。また、1年間にしても快く受け入れてくれる公立の学校はなかなか存在せず、多くの学校に断られたのちに2021年にたどり着いたのが、世田谷区の公立小学校だったと言う。また、映画の中で撮影たかったのは授業風景というより行事の風景だったと監督は語る。
確かに日本の学校で独特なのはその行事の多さだろう。遠足、運動会、文化祭、修学旅行……などなど、日本の公教育にはあらかじめ多くの行事が組み込まれている。その行事に単に参加するだけでなく、「行事に参加すること」を一つの目標として設定することでクラス運営がなされたり、各生徒の役割が決まっていく、という形をとっている。何回も社会化、という言葉を使っているが、単に一人一人が社会化されるのではなくて、(多くの場合)クラスという単位を通じて「コレクティブな社会化」が行われるのが日本の公教育の特徴なんだろうな、と思いながら見ていた。
ゆえに先生たちはクラスの「運営」に非常に気を遣うし、一体感とか連帯という言葉も繰り返し登場する。しかしというか、それらは自然に醸成されるものではなくて、「上からの一体感」であり「上からの連帯」なのである。その光景はこの映画で何度も映し出されている。クラスという単位が崩壊してしまわないことが、先生たちにとって最初に重要なことだからだ。
逆に、クラスという単位から外れたところでは比較的自由なコミュニケーションが行われていることもこの映画は映し出している。とりわけ、6年生の放送委員を務める二人の男女だろう。映画では特に男子側に焦点が当たることが多く、彼が運動会に向けて縄跳びを自宅前で個人練習する様子も映し出されている。ただせっかく校内放送というミニマムかつソーシャルな役割を担当しているシーンが何度も映っていただけに、そっちにフォーカスしても良かったんじゃないか、という惜しさもあった。友達でもないし、もちろん恋愛関係でもなさそうな男女二人だけの空間が、学校というちょっと息苦しさをも持つ空間からのアジールのように見えたのが印象的だったからだ。
2021年の東京、つまりオリンピックを無観客で経験した東京だということも映画は要所要所で映し出す。子どもたちは感染状況の悪化や緊急事態宣言の発布などにより、不自由な時間を何度も経験するわけで、これもある種(学校の外側からではあるものの)「上からの一体感」の要請だなあ、と思いながら見ていた。同時に、すでに2021年だからかもしれないが、ある種の「仕方なさ」を受け入れて順応している様子も見て取れる。
いずれにせよ、マスクをして生活し、給食は黙食をする。感染状況によって分散登校やオンライン授業が実施される。たった数年前なのにすでに歴史になりつつあるような光景を映し出すことも、この映画の狙いだったように思えた。
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