Days

日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。

そして2月が終わる (2011年2月28日)
そして今年も2月が終わる (2012年2月28日)
そしてまた今年も2月が終わる (2013年2月28日)
こうして2014年も2月は終わっていく(2014年2月28日)

 自分で「2月が終わるシリーズ」だと思っていた恒例のエントリーも、4年続けたあと4年サボっていたらしいので、5年ぶりに書くことになる。
 一番最初に書いた、2011年の2月というのはまだ大学3年生で、真っ黒なスーツを着て就活をしていて(厳密にはまじめにしていなかったが)、そしてまだ震災を経験する、ほんのわずか前の出来事だったということがエントリーを振り返るとよく分かる。この頃知り合った人たちといまでもゆるやかな交流があることに驚きつつ(去年はrero70ともharuna26とも会っているし)そういう風に今も昔も生きているというか、連続性が意外とあることにも気づかされる。8年も前のことなのに、意外と地続きなのがインターネットの面白いところだろう。
 リアルな、オフラインの環境というのは引っ越しや就職や転職やらで場を転々としてきたけれども、ネットの世界は場所を変えても再び出会ってしまう(ついったーはやめたけど顔本にはいるとか)ということが平気であるから、案外二度と出会わないことのほうが難しいかもしれない。これをありがたいととらえるか、つながり地獄ととらえるかはもちろんまた別の話だ。

 平成の終わりである。この前にある文章を書いたように、平成2年2月生まれの自分にとっては、20代最後の一年が始まる2月でもある。想像してはいたが、今年も2月はあっという間に終わってしまって、特に最近締め切りのある仕事を複数抱えていたからか、あわただしく時間が過ぎていくことを実感した。
 本業で言えば転職&引っ越ししてもうすぐ一年が経つし、3月には人事異動も発表があるらしいが(まあたいていの役人はこの時期だろう)どちらかというともやもやとしながら仕事を続けている感じがある。中途半端でダラダラいくことのマイナスを最近は実感しているので、そろそろ決断を迫られている感じ。何をどうするかは、追々。

 ただ、何かを決断するとしても、たとえば2011年や2013年に感じたような焦燥感はさほどない。あるいは、2014年のような「あきらめ」もない。
 2014年の文章を引用してみよう。
 
かつての自分にはもう戻れないかも知れないけれど、常に時間は不可逆なのだからどうしようもないし、一つ一つのルート分岐の選択を今更考えてもどうしようもない。そうした「どうしようもないこと」についてのあきらめは、多少持てるようになったように思う。そのあきらめが良い方に作用するか、悪い方に作用するかは分からないし、本当はあきらめてはいけなかったのではないか、と逆に後悔するときが来るのかもしれないが。

 とはいえ、ゲームのように明確なゴールはない。そしてゲームのルール自体はどんどん、変わっていく。「しなやかさ」を持てる人に憧れたことはあったが、憧れだけを持っていてもしょうがない。少しでも近づけるように、そして、もう少しちゃんと生きられるように。少しは「マシな」24歳の日々になることを、2014年2月28日の俺は願っている。

「こうして2014年も2月は終わっていく」


 なるほど、いま考えれば青臭い悩みだなと思う。ただ、24歳で、まだ何も手にしていない若者としては、これが精いっぱいの焦り方であり、生き方だったのだろうと思う。
 29歳になって何が変わったかといえば、一応それなりには職業経験を積んできたことだろう。決して楽ではなかったものの、福祉職として働いていた日々を経験したこと、業界の動向を体感したこよ、制度と実践の間の連環や齟齬を確認できたことなどは、学生時代から地味に続けていたことが繋がっていた実感があって楽しかった。
 いろいろあって転職していまの仕事をしているが、障害者福祉という世界を知ることができたのは自分の中の人生経験としても大きな意味があった。し、福祉の世界で仕事をした経験と得た資格によって、国内ならわりとどこへ行っても仕事にあぶれることはないなという気楽さも生まれた。
 この業界は、さっきの引用を使うと、ゲームのルールが容赦なく変わり続ける世界だ。それでもそこにコミットして生きていくという選択もあるなということを体得できたのは、まだ何も知らなかった24歳の自分には想像もつかない進歩だと思う。

 かといって、あのころの悩みや焦りをただただ「青臭い」と笑い飛ばすこともできない。あの時代の無意味さを自覚しながら、でもあのころの膨大な時間でたとえば本を読んできたことって、いまでも本当に無意味だと思えるか? いや、そうとは言えない。自分の職業経験や、あるいは収入面で短期的に無意味だったとしても、自分の生き方にとって無意味だったとは言えない。
 きっとまだこれからもルート分岐の経験は訪れる。いつかまたその時に、笑えるようにありたいと思う。分岐を楽しむようにして生きていきたい。先に何が待っているかはわからないけれど、すぐに逃げたくなるかもしれないけれど、それでもまあ、生きていくことはできるだろうという実感が、自分の人生にしなやかさをもたらしてくれるのではないかと、いまは感じている。

 29歳の自分は、24歳の自分と比べると、視界が青く澄んで見えると思う。それは本当に、生きてきてよかったと思えることの一つだ。まあ短期的に、いまの仕事つらいとか、そういうのはどうしてもあるけどね!









 こういう本を読んで面白い、という実感が持てるのは、学生時代の学びと仕事での経験の両方が自分の中に存在したからに他ならない。
このエントリーをはてなブックマークに追加

コメント

コメントフォーム
評価する
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • リセット
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • リセット