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ネトフリにて。『君は永遠にそいつらより若い』の時にも言及したツイートに紹介されていた、2021年グッド邦画の一つ。
全体で97分と長い映画ではないが、映画の内容も「高校生の夏休みを利用した自主映画制作」の話なので、高校生にとってはあっという間に終わる夏休みという時期を切り取った、短い青春の話というところだろう。短いけど、濃密な青春である。あらかじめ終わりを見据えた青春というのも、『君は永遠にそいつらより若い』と通じるところがあるかもしれない。『君は永遠にそいつらより若い』もそうだが、いつまでも続くような気がする日常ではなくて、終わりが明確に見えているからこそ続く日常を描く方が、確かに映画には向いている。ちなみに自主製作映画のタイトルは、「武士の青春」である。
祖母の影響を受けて時代劇オタクになったハダシ。幼少期に祖母に連れられて見た名画座での勝新太郎のかっこよさに興奮しただけでなく、時代劇「だからこそできる表現」にあこがれを持っていた。だからあえて現代の高校生として時代劇を撮りたいと思うものの、学内コンペでは王道の青春ものを作ろうとする映画部の企画に惨敗し、予算ゼロからのスタートになる。天文部のビート版や剣道部のブルーハワイなど、映画に普段関わらない友人たちやクラスメイトを巻き込み、夏休みを使って自主制作映画を作ろう!というのが大筋のストーリー。
このビート版を演じるのが文学少女チックなルックスで登場する河合優実なのだが、彼女の魅力はどういう役を演じていてもそこに「ハマる」ところだと思う。この映画では自由気ままに暴走して止まらないハダシをそばから見守ることに徹しているが、この献身が最後までブレないのがいい。他にもヤンキーの見た目や、老け顔の見た目、少しぽっちゃりな見た目の男子生徒たちなど、寄せ集めではあるが明らかに楽しそうなメンツを集めてわちゃわちゃとするのがこの映画の楽しさだろう。高校生か、せめて大学生くらいまでじゃないとこういう「よくわからないわちゃわちゃ」を演出することはできない。
そしてこういう「わちゃわちゃ感」にそぐわないのが凛太郎である。彼は実は未来からやってきたという設定で、その理由も非常に私的なものなのだが、私的であるがゆえに青春の要素として成立している(公的な理由だったら、別の物語になってしまう)。このあたりは完全に『時をかける少女』を踏まえているはずだから、やがて彼はいなくなることが前提だ。しかしいなくなるにも関わらずなぜ現代に来たのか、現代と未来はどう違うのか。そして未来にとって「映画」とは何か? といったメタ的な視点もこの映画では導入される。
ありふれた青春ものでないのは、こうした形で「創作者の物語」に転換していくからだ。ハダシにとってはただ単に好きなジャンルの映画を撮りたいから撮っていたはずなのに、「映画を撮る」という行為自体を反芻しながら撮影に臨むようになっていく。「映画を撮る」という行為をテーマに浮上させるからこそ、コンペで完敗した映画部本体の青春映画との差異化であったり、映画それ自体の良さ(どちらかが優れているわけではなく、どちらもあって良いということ)の追求という形で物語が展開されるようになる後半部分は、青春をとうに過ぎた大人が見ても見ごたえがあるものになっている。
何度も繰り返すようだが、映画制作も、凛太郎との関係も「やがて終わる」わけだ。どこかでエンドマークをつけなければならない。そのため、終盤では「どうやって終わらせるのか?」がより重要なテーマとして浮上する。この映画をどう終わらせたいのか、凛太郎と別れてしまう前に何をすべきなのか。そうしたタイムリミットの提示は、群像劇的な青春映画でありながらもあくまでハダシという中心的なキャラクターの挫折と成長を描く私小説的な展開に持ち込むのが、もう一つのこの映画の醍醐味であると思う。
ハダシを演じる伊藤万理華は元乃木坂46のメンバーで、この映画で映画祭の新人賞も受賞している。なぜ伊藤万理華だったのかは、最後の10分にこそ込められている。最後の10分に見られるライブ感と躍動。観客が単にただそこにいるというだけでなく、彼ら彼女らに「目撃者」としてのインパクトを与える躍動感は、元アイドルとしてはむしろ本職だと言って良い。その意味でも面白いキャスティングだと思ったし、起用に見事に応えて見せたラスト10分の伊藤の演技(というか、ステージング!)はたいへん見事だったと断言して良い。

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