見:イオンシネマ高松東
原作は徳島市立高校による高校演劇で、全国大会に出場する権利はあったが新型コロナの影響で上演はされていない。ただ当時の顧問がyoutubeにアップロードしているため、原作も鑑賞することができる(映画を見た時点では演劇は未見)。
子どものころから続けている阿波踊りに今年も出る予定のミク、水泳部部長だが全国大会には同行しなかったチズル、ミクと一緒に補習に来たのに日差しによってメイクが落ちることが気になって仕方ないココロ、水泳部元部長で引退後もチズルを気に掛けるユイ。この女子高生4人の会話劇が続く中で最後まで主人公格のミクだけは本当の思いを語らない(ように見えた)。ココロは最初から饒舌なので、ミクは聞き手に回ることが多い。チズルもよくしゃべるし、よく動く。彼女も最初は何をしているのかがよくわからないが、その行動に意味があるんだということも少しずつ語ってゆく。そしてユイ先輩も、今話せることをまっすぐチズルにぶつける。
ミクが語らなかったのは語れなかっただけ、つまり会話のターンが彼女に回ってこなかっただけとも言えるかもしれない。タイミングさえあれば、あるいはもう少し会話の主導権を握る意志があったならば、彼女も阿波踊りについての思いを語ったのかもしれない。なぜ女なのに男踊りをするのかと問われ、少しだけ語る場面はあるが、饒舌というほどではない。それでも、短い言葉の中には子どものころから続けている阿波踊りには強い思い入れがあるから、最後のゲリラ豪雨の場面でも踊りをやめない、という演出がシンプルながら一番良かったと思う。
とはいえ、この語る/語らない構図は最初から固定的ではなく、反転が繰り返される。山本先生という体育教師の存在が、もう一人のキーとなる女性だ。彼女は積極的にこの舞台に絡んではこないが、4人の内面を「攪乱」する存在として、あえて「悪い大人」を演じている。ruleとconventionというワードを本エントリーのタイトルで使っているが、この二つは実ははっきり区分けできるものではないと思う。例えばココロが山本に対して反発する「校則に抵触しない程度のメイクの濃さ」は、はっきりと拘束で明文化されているわけではない。ruleのように見えてconvention、つまり時間の経過によってなんとなくできあがってきた共通理解、のようなものだ。
なぜ私たちは女子なのか、が4人(と山本)の間に共通するものだとすれば、それはruleに見えるconventionや、conventionに見えるruleの問い直しの可能性である。なぜメイクの濃さが重要なのか、なぜ女子は男踊りをすると「変」なのか。そうした問い直しを、水のないプールという舞台から繰り広げる。
水のないプールは砂だらけだし、日差しに照らされて熱いし、地面より低い。地面より低いから、甲子園出場に向けて練習している野球部の砂だけではなく、打球も飛んでくる。野球部という「男たち」よりも、プールに集まった「女たち」が下に立つというのは分かりやすい皮肉めいた構図だし、グラウンドにいる「男立ち」からはプールの「女たち」が見えてないというのもさらにクリティカルな構図だなと思う(これはもちろん、舞台を同時に複数用意できる映画だから作ることのできた構図だろう)。
もう一つ映画になって良かったなと言えることがあるとすれば、彼女たちの問い直しは大人になって振り返ると青臭いものに映るかもしれないけれど、でもスクリーンの中にいた(女子高生だった)時代にはとても重要で、本気だったんだ、ということを記録として残せることにも価値があるのではないか。それこそ文字通り女子高生だった時代に演劇部の所属として脚本を書いた中田夢花が22歳になって再度脚本を書き直したというのは、少しだけ遠いところから振り返る青い時代の特別さや貴重さを、改めて噛みしめながらの作業だったのではないかと思わずにはいられない。
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