「相馬看花 ―第一部 奪われたときの記憶―」
監督:松林要樹
出演:田中京子ほか
公式サイト:http://www.somakanka.com/
見:オーディトリウム渋谷
この前の日曜日の午後、渋谷のオーディトリウムという映画館で「相馬看花」という、3.11以降の南相馬を追いかけたドキュメンタリー映画を見てきた。はじめていったけど、ユーロスペースの入ってる建物としてなんとなく納得。
先月の朝日夕刊でこの映画のことを知り、機会を見ていくつもりだったのだが、ちょうどこの日は批評家の佐々木淳と監督である松林要樹が対談する、というセッションが上映後にあったので行ってきた。日曜日の昼間にもかかわらず、という言明もあったけれど、日曜日の昼間だからこそ見に行けたとも言えるのでまずはその点に感謝したいところ。
映像の構成はシンプル。監督が南相馬で偶然であったという田中京子さんという市議会議員の方の撮影から始まり、田中さんを介して出会った人たちを継続的に追いかけるというもの。そういう経緯もあるので登場人物はさほど多くはないが、その分濃密だ。2時間と言わずもっともっと、彼らのことを知りたいと思うほど、出てくる人たちが魅力的なのだ。もちろんその魅力を引き出したのは監督の腕によるところも大きいだろう。
ドキュメンタリーの醍醐味は事実をリアリティとして残すことにあると思うが、ドキュメンタリー「映画」である醍醐味はテレビ局の事情のようなものが介在しない、純粋に監督個人の作品として見ることができるところにもあると思う。いろいろな制約がある以上、マスメディアが撮影、放送するドキュメンタリーほど大味ではないかもしれないが、大味でないことの魅力がつまった2時間になっている。テレビだと脚色や演出がご都合主義的に入る場合があるし、それ自体が悪いわけではないがリアリティとは何か、を考えると難しい問題になる。
とはいえ、機動性をいかしたからこそ生まれた映像もいくつかある。たとえば田中さんや末永さんの生活する避難所を定点観測している映像は、マスメディアのニュース映像とは比較にならないほど濃密なものである。体育館のなかでひとりひとりが線量を測定する映像もなかなか衝撃的だった。状況は大きく変化した。それでも生きている人たちがいる。変わったことも、変わらなかったことも、両方が混在している。
この前土地をめぐるエントリーを書いたが、監督も同じようなことに興味をもって南相馬を撮り続けたのではないか、と思いながら見ていた。つまり、土地の人を映すことによって、その人を通じてあぶり出すものを映像として生み出すことである。登場人物のひとりであるかつて市議会議員をやっていた末永武さんや、約10年間福島第一原発で仕事をしていたという粂忠さんの語る物語は、土地の歴史(の一部ではあるとしても)そのものでもあるのだから。
このへんの話は上映後のトークで佐々木敦が指摘していたことでもある。佐々木さん曰く、この映画が素晴らしいのは分かりやすく告発しようとしているのではないこと。そこにいる人のたいへんさをストレートに伝えるのではなく、土地の記憶のようなものを引き出そうとしている。そこには時間の広がりがあるのではないか、と。(*1)
時間の広がりを感じるには、まずは長く生きた人に問うことなのだろう。
文章にしてみて改めて思ったが、この映画を見て感じたことは多い。しかし、この映画の内容をうまく文章に起こすことができない。粂さんの柔和な表情と表現豊かな方言も、末永さんの熱意も、言葉にすれば短くおさまるが感じたことをそのまま書くことはいまはできないな、と。
大づかみとしてはいままで書いてきたようなことが映画の中には投影されている。伝えたい、という監督の思いと、語りをもって伝えたいという南相馬の人たち。映像は文字通り、人の息づかいを伝えることのできるメディアであるということを、改めて感じた。
*******
同じ日の夜に、NHKのETV特集で「飯舘村一年 〜人間と放射能の記録〜」という番組を見た。昼間に109分、夜に90分、計200分ほどこの日は福島をみつめ、考えた一日になった。
この特集の構成は全村避難後のそれぞれの人々の状況を追う形をとっていて、主に仕事と子育てをめぐるエピソードが多い。住むことは働くことでもあり、働くことは住むことでもある。住めないなら外で働くかいいのか、働くならどこに住むのがいいのか、子育てをするためにはどうすれば・・・という幾多の迷いが映像におさめられている。90分の間のほとんどは重たい空気が覆う。
空気の重たさについてもそうだが、ETV特集としてはこの切り口をとったんだろうなと率直に感じた。リアリティを伝える以上に、その様相を伝えること。語りを引き出しつつ、エモーショナルな言明を引き出す。佐々木さんの言葉を使えば、たいへんさに重きを置いているように見えた。
とはいえ、強調しすぎる結果になっていないのは、ETV特集的な(といっていいのかどうかはあやふやではあるが)ストイシズムのようなものを感じる。NHKスペシャルは時々前のめりするというか、伝えたい思いありきの番組構成になることがしばしばあるが、ETV特集のよさはある程度ストイックに現実を伝えること。その現実は、他の番組ではカットされたり扱われないような対象であり、継続的であることだと思っている。
福島をみつめる一日を過ごしながら、映像としてそれを見ることの可能性と限界についても思いをめぐらした。当たり前だがあくまで福島で起こっていることのほんの一部であり、あえて福島という言葉を使って書いているが厳密にはもっと具体的な地名(市町村である南相馬や飯舘、あるいはもっと小さい範囲で)で語るほうが適切だろう。
とはいえ、現実に福島あるいはフクシマとして認識が及んでいるのも事実だ。こうなってしまっているという前提をある程度考慮しつつ、引きずられないような形で、これからも福島をみつめていたいと思う。
自分が福島に初めて足を踏み入れてから、5ヶ月半ほどが経つ。(*2)
直接訪れてできること、分かることはあるが、あくまで個人には限界もある。だからこの日のように、コンテンツを通じて福島をみつめること、厳密にはコンテンツのその先にある福島のリアリティをみつめることを、これからも続けていきたいといまは考えている。
映画「相馬看花」第一部に関しては来週金曜まで渋谷で上映中のようです。また、DVDがここ(http://tongpoo-films.shop-pro.jp/?pid=42899723)で購入できるよう。
*1 手元のメモを元に構成したので、トーク内容は書かれている言葉通りそのままではないです。ご容赦。
*2 福島を訪れた2日間をエントリーにしたものはこちら→「鈍行列車のたしなみ nach ふくしま」(2012/1/10)
監督:松林要樹
出演:田中京子ほか
公式サイト:http://www.somakanka.com/
見:オーディトリウム渋谷
この前の日曜日の午後、渋谷のオーディトリウムという映画館で「相馬看花」という、3.11以降の南相馬を追いかけたドキュメンタリー映画を見てきた。はじめていったけど、ユーロスペースの入ってる建物としてなんとなく納得。
先月の朝日夕刊でこの映画のことを知り、機会を見ていくつもりだったのだが、ちょうどこの日は批評家の佐々木淳と監督である松林要樹が対談する、というセッションが上映後にあったので行ってきた。日曜日の昼間にもかかわらず、という言明もあったけれど、日曜日の昼間だからこそ見に行けたとも言えるのでまずはその点に感謝したいところ。
映像の構成はシンプル。監督が南相馬で偶然であったという田中京子さんという市議会議員の方の撮影から始まり、田中さんを介して出会った人たちを継続的に追いかけるというもの。そういう経緯もあるので登場人物はさほど多くはないが、その分濃密だ。2時間と言わずもっともっと、彼らのことを知りたいと思うほど、出てくる人たちが魅力的なのだ。もちろんその魅力を引き出したのは監督の腕によるところも大きいだろう。
ドキュメンタリーの醍醐味は事実をリアリティとして残すことにあると思うが、ドキュメンタリー「映画」である醍醐味はテレビ局の事情のようなものが介在しない、純粋に監督個人の作品として見ることができるところにもあると思う。いろいろな制約がある以上、マスメディアが撮影、放送するドキュメンタリーほど大味ではないかもしれないが、大味でないことの魅力がつまった2時間になっている。テレビだと脚色や演出がご都合主義的に入る場合があるし、それ自体が悪いわけではないがリアリティとは何か、を考えると難しい問題になる。
とはいえ、機動性をいかしたからこそ生まれた映像もいくつかある。たとえば田中さんや末永さんの生活する避難所を定点観測している映像は、マスメディアのニュース映像とは比較にならないほど濃密なものである。体育館のなかでひとりひとりが線量を測定する映像もなかなか衝撃的だった。状況は大きく変化した。それでも生きている人たちがいる。変わったことも、変わらなかったことも、両方が混在している。
この前土地をめぐるエントリーを書いたが、監督も同じようなことに興味をもって南相馬を撮り続けたのではないか、と思いながら見ていた。つまり、土地の人を映すことによって、その人を通じてあぶり出すものを映像として生み出すことである。登場人物のひとりであるかつて市議会議員をやっていた末永武さんや、約10年間福島第一原発で仕事をしていたという粂忠さんの語る物語は、土地の歴史(の一部ではあるとしても)そのものでもあるのだから。
このへんの話は上映後のトークで佐々木敦が指摘していたことでもある。佐々木さん曰く、この映画が素晴らしいのは分かりやすく告発しようとしているのではないこと。そこにいる人のたいへんさをストレートに伝えるのではなく、土地の記憶のようなものを引き出そうとしている。そこには時間の広がりがあるのではないか、と。(*1)
時間の広がりを感じるには、まずは長く生きた人に問うことなのだろう。
文章にしてみて改めて思ったが、この映画を見て感じたことは多い。しかし、この映画の内容をうまく文章に起こすことができない。粂さんの柔和な表情と表現豊かな方言も、末永さんの熱意も、言葉にすれば短くおさまるが感じたことをそのまま書くことはいまはできないな、と。
大づかみとしてはいままで書いてきたようなことが映画の中には投影されている。伝えたい、という監督の思いと、語りをもって伝えたいという南相馬の人たち。映像は文字通り、人の息づかいを伝えることのできるメディアであるということを、改めて感じた。
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同じ日の夜に、NHKのETV特集で「飯舘村一年 〜人間と放射能の記録〜」という番組を見た。昼間に109分、夜に90分、計200分ほどこの日は福島をみつめ、考えた一日になった。
この特集の構成は全村避難後のそれぞれの人々の状況を追う形をとっていて、主に仕事と子育てをめぐるエピソードが多い。住むことは働くことでもあり、働くことは住むことでもある。住めないなら外で働くかいいのか、働くならどこに住むのがいいのか、子育てをするためにはどうすれば・・・という幾多の迷いが映像におさめられている。90分の間のほとんどは重たい空気が覆う。
空気の重たさについてもそうだが、ETV特集としてはこの切り口をとったんだろうなと率直に感じた。リアリティを伝える以上に、その様相を伝えること。語りを引き出しつつ、エモーショナルな言明を引き出す。佐々木さんの言葉を使えば、たいへんさに重きを置いているように見えた。
とはいえ、強調しすぎる結果になっていないのは、ETV特集的な(といっていいのかどうかはあやふやではあるが)ストイシズムのようなものを感じる。NHKスペシャルは時々前のめりするというか、伝えたい思いありきの番組構成になることがしばしばあるが、ETV特集のよさはある程度ストイックに現実を伝えること。その現実は、他の番組ではカットされたり扱われないような対象であり、継続的であることだと思っている。
福島をみつめる一日を過ごしながら、映像としてそれを見ることの可能性と限界についても思いをめぐらした。当たり前だがあくまで福島で起こっていることのほんの一部であり、あえて福島という言葉を使って書いているが厳密にはもっと具体的な地名(市町村である南相馬や飯舘、あるいはもっと小さい範囲で)で語るほうが適切だろう。
とはいえ、現実に福島あるいはフクシマとして認識が及んでいるのも事実だ。こうなってしまっているという前提をある程度考慮しつつ、引きずられないような形で、これからも福島をみつめていたいと思う。
自分が福島に初めて足を踏み入れてから、5ヶ月半ほどが経つ。(*2)
直接訪れてできること、分かることはあるが、あくまで個人には限界もある。だからこの日のように、コンテンツを通じて福島をみつめること、厳密にはコンテンツのその先にある福島のリアリティをみつめることを、これからも続けていきたいといまは考えている。
映画「相馬看花」第一部に関しては来週金曜まで渋谷で上映中のようです。また、DVDがここ(http://tongpoo-films.shop-pro.jp/?pid=42899723)で購入できるよう。
*1 手元のメモを元に構成したので、トーク内容は書かれている言葉通りそのままではないです。ご容赦。
*2 福島を訪れた2日間をエントリーにしたものはこちら→「鈍行列車のたしなみ nach ふくしま」(2012/1/10)
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