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これも見に行こうと思ったけど見られなかったシリーズ。まずは思った以上にオーソドックスな百合映画的展開を見せるスタートラインだなと思った。学校の転校生(女子)と仲良くなるというフィクションあるあるな展開を見せるので序盤は安心感が強い。ずっとこのままでいいのではと思うほどはしゃぐが、これは日常系アニメではなく映画だからこの安心感がやがて失われるはずだ。だからこそ貴重な日々として刻まれていくのだろう、と言う地点まではわりと容易に想像できる。
だが、単なる百合展開にしないところもこの映画の複雑さである。ミソとハウンの二人の間に現われるジヌという男がなかなかの曲者で、優男風ではあるが本心が分からないタイプというか、どちらにも気があるように見せてしまうタイプの男である。おそろしいことにジヌは学生編が終わっても登場する。ゆえに映画全体を掻き回す存在として、トリックスターのようなポジショニングで機能し続けてしまう。
ジヌは最初ハウンと付き合い、ハウンがミソにジヌを紹介して、その後3人で遊びに行った時にミソとジヌがキスをして、という形で掻き回す存在である。ジヌ自体はかなり空っぽな、空洞のような存在として描かれるので、もしかしたら鑑賞者が自分の経験に引換えて代入可能な存在として位置付けられているのかもしれない。『恋は双子で割り切れない』じゃないが、この映画の場合は自ら「割り切れない存在」として立ち振る舞うのがジヌである。
その結果としてどうなるかというと、ハウンとミソとの間における女性の友情譚、という美しい話ではない。むしろ、「私の方がジヌを好き」というプライドをどこまで貫くかという展開に至る。こうなってくるとただの百合映画ではないな、と思わせるのだ。まさに割り切れない二人の感情が、ストレートにぶつかり合う。それを若さと言うべきか青さと言うべきかは分からないが、ジヌという男のせいでハウンとミソの二人はお互いに素直に向き合えなくなってしまう。本当はこうなりたくはなかったはずなのに!
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高校を卒業した後に島(済州島)にとどまる保守的な生き方をするハウンと、世界を自由に旅するミソという構図で描かれる。他方で、ハウンにはハウンで上京したいという思いをずっと抱えていた。島を出てもっと絵を描きたい、絵を勉強したいというハウンの思いの強さもまたミソとの関係性を繋ぎとめる役割を持っている。この思いの強さがずっと残り続けたのが非常に美しいと思った。目に見える部分はかきまわせても、容易に表に出せない深い部分に残った思いまでは、ジヌの好きなようにはさせられないからだ。
そのあとの時系列はかなり入り乱れているように見えた。おそらくあえて時系列通りにせず、「映画としての終わり」を見据えるような展開に持っていくという意図なのだろう。ある時、旅に出たハウンがミソに絵葉書を書く場面がある。「旅の途中で悟ったよ。私たちの人生が変わっていくこと」とハウンは記している。その意図は詳しくは分からない。ただ、映画を見ているひとりの観客としてはこう思う。「昔のようには生きられない。いい意味でも、悪い意味でも」と。
というわけで、ありきたりなハッピーエンドではないのだろうという予感が強まった。前述したように最初からうっすらとはあったけれど、あえてさっきの引用部分を挟むということは、分かりやすく安心して着地させないことだけは分かる。それに、後半だけで2人の人間がミソの前から退場するのはなかなかに厳しい。その厳しさに直面した、いわば2回にも渡って「残された側」であるミソの感情に観客の感情も投影させるようになっているのだろうと思った。
つまりこの映画を通して二人(ジヌを含めると三人?)の半生を、それぞれの喜怒哀楽をたくさん見てきた観客によって、「取り残された」ミソの感情が観客とシンクロするのだと思う。シンクロしてからのラスト10分くらいはアート映画のようで、ほとんど多くが語られないまま眼差しだけが残される。残された者が見つめる世界を観客も追体験するように感じさせながら、この映画は終っていく。
二人の人生の行く先はここしかなかったのだ、と。でもこれもまた、確かにずっと二人で歩んできた人生なのだ、と。
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