見:シネ・リーブル神戸
Info:公式サイト/filmarks/IMDb/Letterboxd
一瞬だけ神戸と京都(京丹波)が舞台になるので、神戸で見られたのは素朴によかったかなと思った。またすでに他の人も多く指摘していると思うが、『親密さ』(2012年)や『ハッピーアワー』(2015年)の下敷きがあったからこそ作られた映画だとは思う。前2つがインディー映画だったので、商業映画としてこれを見た人がイベント上映などで過去作品も見てくれたら嬉しい。そのためにこそ各地でのイベント上映が意味を持つ。
逆に言うと、映画として新しいことをやろうという映画ではなかったとも思う。その分、原作のエッセンスを抽出して二次創作としての映画を作り上げることに注力している。これは『寝ても覚めても』(2018年)や『ドライブ・マイ・カー』(2021年)の経験がおそらく生きていると言える。もちろんユマニチュードという概念の導入は新しい。ゆえに新しいことへの挑戦よりも、集大成を目指した映画であると感じた。ディスコミュニケーションの極北を追求した『悪は存在しない』とは違うベクトル、つまりコミュニケーションの極北を模索することをやったのだと思う。
気づけば四半世紀、それなりに闇雲に、言ってみれば愚かに、映画づくりを続けてきた。過去作のどの作品にもどこかしら、新作『急に具合が悪くなる』との類似点を見つけられるだろうけれど、それだけでなく、過去作同士が驚く(呆れる)ほど、似た相貌を示すこともある。それは単純に「ほかに手が思いつかない」という能力の限界を示すものだし、「次こそは、もっとうまくやれるかも知れない」と自分に期待をかけ続けた結果でもある。どの作品づくりも、自分の新たな愚かさを発見する旅だった。
「濱口竜介特集上映 突然、偶然、必然」
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これもいろんなところで指摘されていると思うが、原作の宮野真生子と磯野真穂の経歴を引き継いで、哲学と文化人類学を専攻したという設定は良かったと思う。磯野に似せる形で、マリールーは早稲田の修士で文化人類学を学んだ(だから日本語を話せる)という設定も作劇に生かされている。途中のホワイトボード講義はアセモグル&ロビンソンを読んだのかな?と思ったが、読んでいたのはナンシー・フレイザーのようであった。
とはいえ何を読んだかは重要ではなく、アセモグル&ロビンソンでも、デヴィッド・ハーヴェイでも良い。収奪的な構造によってより資本主義が暴走し、政治的に保守化するのはあちこちの現代権威主義国家が証明していることである。しかし最近のハンガリーがそうであるように、権威主義政権が永遠に続くわけでもない。
あのホワイトボード講義は、現在地の説明としては大きく間違ってはいない。しかし未来永劫この構造が続くわけではなく、そこには民主主義のダイナミズム(選挙制度や政党政治)が確実に存在するとも思っている。つまりホワイトボード講義には現代経済(21世紀型の資本主義の潮流)の説明はあるのに、現代政治(民主主義と権威主義の相克、政党政治の再編)の説明がない部分が片手落ちでもったいない。そこまでホワイトボードに書かれていたらもっとよかったかな〜と思うがさすがにこれはこまかすぎるツッコミだと思うので個人の感想にとどめておこう。
また、精神病院を廃止したイタリアやイヴ・ジネストが提唱したユマニチュードを単に礼賛するわけではない。そこはむしろ現実主義とどう接続するか、という葛藤と格闘の形を映画にしており、現実の介護職や看護職の人が見ても面白い映画になっていると思う。この仕事は目の前の人だけを相手にしていればずっと楽なのだけど、組織や人手不足という壁があり、報酬の低さという経済的な壁があることは避けられない。こうした視点が根底にあるリアリズム映画でもある。
その上でどういうケアを実践すれば良いのか、すべきなのか。そうしたリアリズムでやっていくしかないけれど、ロマンティシズムを失うのも惜しい。この二つを3時間以上行き来するところは、最初に挙げた『親密さ』を思い出した。震災の次の年、つまり真理がフランスから日本に戻ったのは2012年。『親密さ』が公開されたのも2012年である。これは果たして偶然だろうか? ロマンティシズムの追求は、長塚京三が演じる舞台俳優の生きざまにも表れている。こう生きなければならないではなく、こう生きたいのだと他者に問う。それもまた、『親密さ』の延長に見える濱口の構想だと思った。
資本主義がエスカレーションするから、あるいはAIの時代がやってくるからとか、たぶん「上手く生きる方法」の指南はこの世界(とインターネット)にはあふれている。濱口が目指すのはその方向ではない。時代に沿った生き方ではなく、時代に関係なく通用する普遍性。それはきっと、一本の映画が長く愛され、見続けてもらうために必要な実践とも言えるのかもしれない。もちろん普遍性と一言で言っても、すぐに掴めるものではない。
だからこそ、コミュニケーションを止めない映画だ。パリの川沿いで、夜勤中の休憩室で、京丹波の山の中で。この映画には知的障害を伴うASDの男性も登場するが、そうしたマイノリティも包摂するコミュニケーションの方法を、最後まで模索している。明確な答えがあるわけではなくても、一つの答えを示したい。そのために必要な、3時間14分だったのだ。







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