見:イオンシネマ宇多津
原作は読んでいないが柴田錬三郎賞を取るなどの評価を受けており、それなりの分厚さもあるので原作のポテンシャルはそれなりにあるのだと思う。ただ映画化となると……どうしても尺の問題に突き当たってしまうんだろうなあ、という感想を持った。映像表現として面白い箇所はいくつかあるが、肝心のストーリーの組み立てやキャラクターの書き込みがバランスを欠いたまま(これはあえてかもしれないが)終わったな、という感想を持った。
まずこれは3つの視点が同時並行で進んでいく物語である。検事である寺井啓喜の視点。検事としての正しさを追求する彼は社会のマジョリティ側の価値観を内面化しており、それが結果的に家族との関係に亀裂を生む。不登校になった息子のやりたいことを少しでも実現させようとする妻と、子どもは学校に通うものであり、逃げてはいけない、世の中そんなに甘くないぞと大人目線で正論を説く寺井の間には明確な対立の構図がある。
ガッキー演じる桐生夏月の視点。彼女は一般的な恋愛や結婚には関心がないが、10代のころから水に対して欲情するセクシュアリティを自覚している。寝る前には一人ベッドでyoutubeで滝や川の動画を再生し、恍惚に浸る、そういう生活をしていた。そんなある日、中学の同級生、佐々木佳道と再会する。佳道は夏月とセクシュアリティを共有できる関係性だったが、佳道は中学の途中で転校していなくなっていた。久しぶりの再会に、夏月は高揚を隠せない。
神戸八重子の視点。神奈川の大学に通う彼女は学祭の実行委員会メンバーでもあり、ダイバーシティフェスと言うステージイベントの企画に関わっていた。その企画の提案の過程で、ダンサーの諸橋大也と知り合う。彼はミスターコンに出場するほどのルックスと魅力を持ちながら、他者とのつながりには深い関心を示さず、一人孤高の世界でダンスを踊り続ける。
こうやって主要なキャラクターを整理してきたわけだが、この5人がバラバラに登場するのが前半で、夏月と佳道が出会う、八重子が大也と出会うことによって物語が少しずつ動き出していくという展開である。バラバラなキャラクター同士がつながりを持っていくのは、あらかじめキャラクターの個性とセクシュアリティを知っている視聴者側からすると、どういう風に関係性を築くのか、あるいはどのような形で「カミングアウト」を行うのかが気になるところだ。しかしこの映画はそういった点には重きを置かない。あくまで、それぞれの「生き方の問題」として、その一部としてセクシュアリティを扱う。
とはいえ寺井と八重子についてのセクシュアリティは問題にならない。この二人の場合は、明言こそされないがおそらくオーソドックスなセクシュアリティ(対人性愛かつ異性愛)を持っているからこそ、マイノリティなセクシュアリティを持つ夏月、佳道、大也とは明確に対立する。亀裂を生んでいく役柄になっている。言ってしまえば、物語の主役はマイノリティである3人であり、マジョリティ側である2人はカメラとして視聴者側に立つような感覚だと思う。「マイノリティをみつめる側」として。
しかしながら、そうした形で寺井と八重子が道具的に使われるがゆえに、次第に映画の中でこの二人は重要な存在ではなくなってゆく。それはそうだろう。二人にとって生き方の問題はさほど重要ではない。映画の後半の展開が進む中、寺井と八重子の役割は後退してゆく。その代わり、寺井が対峙することになる夏月と佳道、八重子が対峙する大也のほうがこの映画にとって、物語にとって重要なのだ。
TBSラジオ『こねくと』の町山解説ではこの映画の終盤と『桐島』の終盤を重ね合わせていたが、確かに映画のクライマックスで重要人物を対峙させる妙味について語っていたが、確かにこの点は非常にこの映画の特徴だと感じた。最初から最後まで重要人物であり、そしてキレのいい表情を作り出し続けるガッキーの存在が、最後に寺井と向き合うことで改めて際立っていることがよくわかる。彼女の覚悟、彼女の生き方が、冷たい目と低いが力強い声に、凝縮されているからだ。
いろいろ書いてきたように映画として評価するには個人的には難しいと思っているが(特にマイノリティ側3人のうち、大也の書き込みが浅すぎる)「ガッキーを堪能する映画」として割り切るならば非常に満足度が高いという、キャスティングの妙味がすごくあった映画ではあった。佳道演じる磯村勇斗もガッキーにとってミステリアスでありながら理解者でもあるという二面性を好演していたし、そういった面でも見る点は確かにあった映画だったとは思う。30代も後半になり、役者として凄味を増したガッキーを堪能できるという点では、劇場で見た甲斐があったと言って良い。
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