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1999年のアカデミー賞では11部門にノミネートされたほどでもあるほど言わずと知れた戦争映画の名作だが、意外と見逃していたので今回配信で見た一本。プロジェクターの大画面で見て正解の映画だった。どうしても比較的新しい映画に目移りしてしまうが、こういう形での視聴(見るべきだが見てない映画)も増やしていきたいと思う。しかしマット・デイモンでは『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』でもアカデミー作品賞を逃し、今作でも逃したんだな・・・という気持ちにはなった。
前置きはこのへんにしてさて、映画を見終えてなおさら感じるのはまず日本語タイトルの「プライベート・ライアン」がやや分かりにくいということだ。原題の"Saving Private Ryan"のほうが分かりやすくなる。そう、この映画は冒頭約27分のノルマンディー上陸作戦がフィーチャーされがちだが、あの過酷な戦闘はあくまで前座であり、ライアンを探し出して国に帰すことが、トム・ハンクス演じるミラー大尉の率いる部隊に与えられたミッションなのである。
しかしながらやはり、最初の27分が壮絶だ。カメラはぶれまくるが、一瞬たりとも戦闘は止まらない。まさに地獄の中に放り込まれたような映画体験を否応なくさせられる。この前に見た『ペリリュー 楽園のゲルニカ』でも似たような演出をしていた(無慈悲な戦闘シーンを描くこと)ため、もしかしたら『プライベート・ライアン』のことも頭にあったのかもしれないな、と感じた。
この27分が終了したあとに映し出されるのは、横たわる兵士の遺体と、完全に赤く染まってしまったオマハ・ビーチの波打ち際だ。これを地獄以外の言葉で表現するのは難しい。そしてさらなる地獄は、この27分を生き延びたあとも続いてしまう。救いのなさ、だと言ってよい。もちろん最初の27分はやや過剰に演出されたものだとも言えるだろう(実際にそのような批判もあったようだ)。だが戦争のない国で生きる身からすると、この場に立たなければならないこと自体が地獄なのだということで、十分ではないかと思ってしまう。思わされてしまうのだ。
とりわけ、この「立たされてしまった」役柄をうまく演じているのがアパム役のジェレミー・デイビスであり、ライアン役のマット・デイモンだろう。アパムは地図作成や通訳要員として招集されており、戦闘能力は皆無と言ってよい。終盤約30分の銃撃戦(前半と後半が鏡映しのように見える!)では狙撃手に対して銃弾を補充する役割を負うが、銃弾が飛び交う戦場地帯で足がすくんでしまい、ほとんど何もできないままその場をやり過ごす。他方でライアンは突然目の前に現れたミラー大尉から3人の兄の戦士を知らされ、国に帰れという命令を受ける。
戦闘の目的は目の前の敵を倒すことだというシンプルなものであれば、ある意味誰も苦労しないのかもしれない。目まぐるしく変わる戦況がありながら、「上からの命令」もある。軍隊も一つの官僚制である以上、命令は絶対だ。故郷では高校教師だというミラーは、しかし戦場では教師として振る舞うことはない。あくまで部隊を率いる上官として生きるのみである。彼らは与えられた役割の中で、いかにして生き延びることができるのか?
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終盤30分のまた息をのむ戦闘シーンを経て、一つのエンディングを迎える。これはある意味では分かりやすい形での反戦メッセージとも言えるだろう。他方で、アメリカ対ドイツ軍という分かりやすい構図である(アメリカはあくまで連合国軍の一部である)ことは批判的に指摘しておくべきだろう。しかしながら、そうしたナショナリズム及びパトリオティズムと、「個人的な生き延びる理由の分離」(個人主義的であってもよいということ)もまた、この映画の魅力なのである。
この映画が戦争映画でありながら「個人的な生き延びる理由の分離」を提示したのはなぜか。それはあくまで視点が現代にあるからだ。現代の老ライアンが、家族を連れてミラー大尉の墓を見舞う。ここには一種のナショナリズムも見られる(戦中から戦後へという歴史的な連続性を踏まえたナショナリズム)が、あくまでライアンの個人史として、生活史としてあの戦争を捉えているのがポイントだ。
戦争とは国際政治の延長であり、ナショナリズムの極北である。しかしながら同時に、最前線で戦うのは一人一人の人間であり、市民である。皆それぞれに、家族を持つ個人なのだ。だからあえて個人主義的で家族主義的な側面、つまりナショナリズムやパトリオティズムからは遠く離れた視点を提示することをスピルバーグは重要だと考えた。そうすることでようやく、あの戦争はアメリカ(連合国)対ドイツという戦いであると同時に、あの時代を生きた人間同士の戦いだったということを振り返ることができるからである。

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