見:イオンシネマ綾川
この映画を見る前にまず自分はヴェンダースをそんなに見ていないんだよな、ということを考えていた。上京した年(2008年)に早稲田松竹で『都会のアリス』というレトロでモノクロなロードムービーを見た記憶はあるがおそらくそれだけで、『ベルリン・天使の詩』も見てないし、今回の映画にも小説が登場するハイスミスの『アメリカの友人』も見ていないので、ヴェンダースのフィルモグラフィーは全然分からん、と言う前提がまずあるということを書いておく。
その上でこの映画はまず東京ムービー、言ってしまえば東京観光ムービーだなと思って眺めていた。映画の前半部分はドキュメンタリー的で、役所広司演じるトイレ清掃員の平山は基本的に無口なキャラクターとして描かれる。無口だが、仕事をするので身体はよく動くし、よく移動する。足立ナンバーの軽自動車に清掃道具を全部乗せ、渋谷まで首都高で移動し、掃除をし、また典型的なボロアパートである自宅に戻る。
なぜ平山は単身でボロアパートに住んでいるのかは分からないが足立ナンバーではあるが彼が自転車で移動する風景を見ていると浅草周辺のようであり、そして銭湯にも通っているのでアパートは風呂なしで、そして通い続けている小さな居酒屋では巨人戦の野球中継が流れているのでもしかしたら巨人ファンなのかもしれない(そしてポランコがラインナップにあったのでおそらく撮影は2022年だろう)、などなどいろいろ気づくことはあるものの、「なぜなのか」は詳しく明かされない。なぜなのかはおそらくさほど重要ではないのだろう。
なぜ重要でないのかは前述したようにこの映画は東京(観光)ムービーであるからだ。2022年の東京はまだまだマスクをしている人が多く、外国人観光客が容易に入国できなかった時期でもあるため(2022年後半は緩和が進んだが、映画撮影の時期にはまだ早い)外の人に見せる効果は狙っていたと思う。そもそもが渋谷のトイレの広報や宣伝のために作られたという経緯がある(だからTOTOの協力もクレジットにしっかりある)ため、観光ムービーでありプロモーションムービーである、というのが主軸なのは事実としてあるだろう。
平山は一貫して自ら過去を語らない。それでも彼の暮らしには、過去が満ちている。毎日移動中に聞くカセットテープ、昼休みなどを利用して木々を撮りためるフィルムカメラ、そして寝床に着く前のわずかな時間に少しずつ読み進める古い文庫本(フォークナー、幸田文、そしてハイスミス)。彼は携帯電話は持っているようだが(さすがにそれがないと仕事にならないという判断だろう)スマートフォンは持ってないようだし、だから当然Spotifyも知らない。
後半は平山の過去を知るキャラクターが登場し、交流も生まれるが、それでも彼は過去を語らない。確実に彼にも過去はあるはずなのに、過去を語ろうとしない。それは終盤に登場する三浦友和演じるキャラクターが、実はね、という語り口で初対面の平山に対して自らの過去と現在を語るのとは非常に対照的である。
ただ前半のフェイクドキュメンタリー的な撮影と、後半の急にドラマ要素が入ってくる撮影が混在しているのはやや違和感もあったなと感じる。平山は何があっても過去を語ろうとしないだろう。だからこそ、ドラマを入れる必要があったのかどうか。三浦友和は必要な配置だったと思うが、平山の親族は必要だったのだろうかとは思う。
語らない平山にもきっと過去はあるはずだが、それを明かすことは何度も言うように主軸ではない。すべての人に過去はある。苦い過去も楽しい過去もあるだろう。それらをひっくるめた上で今を生きるしかないというリアリズムと、今を生きる喜びはミニマルな生活の中にも確かに存在するはずだ、というのは東京が舞台であっても当然成り立つし、東京でなくても通用する普遍性がある。それを描こうとしたのはよく分かる映画だった。
コメント