Days

日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。





見:イオンシネマ高松東

 今年のラインナップならばアカデミー賞を複数部門獲るだろうとは思っていたが、思った以上に圧勝だったなと感じた。確かにこの物量(3時間近い!)と、このテーマならアメリカのみならず世界中の人に訴求力があるのは確かだろう。少なくともロシアが始めた戦争、そしてイスラエルが始めた「侵略」に関心がある、もしくは何らかの形で参加している国家の人間なら、核という「機能」とは無縁ではいられない。実験を除くと1945年以降使われていないにも関わらず、国際政治に長い間影響力を及ぼしている核。その「機能」こそが、オッペンハイマーの予期していた未来だったのかもしれない。

 上記に添付したNHKのインタビューを見ても分かるが、ノーランはオッペンハイマーの伝記映画としてこれを制作しているのだと思う。最近ハヤカワノンフィクション文庫から刊行された原作についてもそうで、原作はそもそも両親のなれそめから始まっている。ドイツで生まれた父がアメリカに移り、母親とロマンティックな出会いをし、その二人のもとでオッペンハイマーは少し風変わりな(今風に言うと「オタク(あるいはナード)」な)少年として自由に育つ。その彼が、どのように戦争に、政治に「飲み込まれてゆく」のか。それが今回の映画の見どころだろう。

 本来ならば彼は、大文字の政治、それも第二次世界大戦のようなあまりにも巨大すぎる政治的事象には不向きだったのだろう。この映画で一番滑稽だなと感じたのは、原爆投下について意見を交わすためにトルーマン大統領に直接会いに行く場面だ。「私の手は血塗られた」と語るオッペンハイマーに対し、トルーマンは一笑する。トルーマンからするとオッペンハイマーはただの科学者であり、技術者でしかない。

 そもそも基本的に戦争は政治家の仕事であり、トルーマンにとってオッペンハイマー個人の感傷など、「どうでもいい」部類に入るのだろう。ボタンの掛け違いというべきか、二人の間にイメージが全く共有されていないことがこの短い会話のシークエンスに凝縮されている。それは、オッペンハイマーが政治というもの、その力学や権限の所在を理解していないことの表れである。
 
 戦後の冷戦下における軍拡競争に懸念を抱えるやりとりもこの映画には多く出てくるが、実際の政治(戦後に生まれた冷戦下の国際政治体制)に全く関与できないことに対しては悲哀すら感じる。赤狩りへの抵抗や水爆への反対表明についても、オッペンハイマーの存在感は政治的には霞のような存在にしか見えない。限りなく政治的な研究を行ったオッペンハイマーであっても、現実政治の舞台では力を持たないのだ。なぜならば彼は選挙で選ばれたわけではなく、政治的な正統性を持たないアウトサイダーでしかないからだ(と、個人的には解釈した)。ゆえに政治の世界でオッペンハイマーはほとんど何の権力も有していない。民間人として閣僚に登用されるようなポジショニングを行えたら話は違ったのかもしれないが……

 もう一つ、これは映画でもよく演出されていたと思うが、原爆の開発にはあまりにも多くの人、軍人や政治家や研究者が関わっているということだ。だからオッペンハイマーだけが核開発の責任を持つべきではない、という主張がこの映画から垣間見える。オッペンハイマーは確かにアイコンというか象徴的な存在かもしれないが、同時に核開発も核実験も、そして核使用についても特定の個人(政治家を含む)の責に帰するような問題ではなくて、集合的責任として考えねばならないことを改めて突き付けている。集合的責任が重要だからこそ、オッペンハイマーの「個人的な感傷」が些末に扱われることについても合理性があるのかもしれない。

 この集合的責任は、現代の民主主義国家に生きる市民一人一人もまた無関与ではいられないだろう。ロシアやイスラエルだけでなく中国、北朝鮮、インドといった核保有している政治的アクターの存在は国際政治を揺さぶり続けている。アカデミー賞を含めてこの映画が賞賛される背景には、そうした現実政治のリアリティが確かに存在しているように見える。


オッペンハイマー 上 異才 (ハヤカワ文庫NF)
マーティン J シャーウィン
早川書房
2024-01-22


オッペンハイマー 中 原爆 (ハヤカワ文庫NF)
マーティン J シャーウィン
早川書房
2024-01-22


オッペンハイマー 下 贖罪 (ハヤカワ文庫NF)
マーティン J シャーウィン
早川書房
2024-01-22



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