『ニンフォマニアック』という映画がラース・フォン・トリアーというデンマーク人によって撮られた映画であることや、『アンチクライスト』、『メランコリア』に続く「鬱三部作」の最後の作品であることはvol.1を見たあとにいろいろと調べて知った。
早稲田松竹ではついこの間連続上映をやっていたようだが、vol.1とvol.2は映画の中の空気感がかなり異なる作品で(唯一、ベッド上でのジョーとセリグマンとの対話シーンを除いて)別々に見るものとして機会が提供されているのは納得がいく。
ニンフォマニアック、色情狂。単なるセックス依存症を超えた、性的なものや身体に対する過剰なまでの執着を持ってしまったジョーの半生が4時間に渡って回想的につづられていく。
ラース・フォン・トリアーの映画、とりわけ「鬱三部作」は、一言で言うならば、救済とその不可能を、ただそれのみを語っている。その無理、その無効、その無意味を。
佐々木敦「救い主が嗤われるまで いわゆる『鬱三部作』について」 『ユリイカ 特集=ラース・フォン・トリアー』2014年10月号, p.74
ジョーという人格は宿ってしまった呪いから逃れられず、否が応でも自分自身の性質を引き受けてしまうというどうしようもない迷路にはまりこんでいるということに気づくのはvol.1のラストであって、それまでの内容はかなりコミカルでエンタメ色の強いものになっている。行為の演出は余計な部分ばかりが凝っていて(音楽とか、カメラの切り替えとか)それ自体はさほど重要ではない(日常的すぎるというだけ)ことをよく表していた。
しかし、結局呪いはどうしても解けそうもないということを、vol.2に突入する前に容易に悟ることができる。それはたとえば就職した会社でことごとく男関係の問題を引き起こすことや、やっと就職した会社でもかつての恋人(ジェローム)と遭遇してしまいそのままずるずると引きずりこまれていくからだ。理性などは存在せず、肥大した本能だけをベースに生きるのがジョーという人格であって、肥大した本能はそのままアイデンティティになってしまう。
だからvol.1のラストでジョーが感じてしまう違和感は自分自身のアイデンティティの揺らぎそのものに他ならない。
だからある意味vol.2の流れは大筋で予想できる。『Seraphic Blue』のヴェーネ・アンスバッハよろしく、アイデンティティに固執するしかない生き方は、そしてそれが選ぶとか選ばないという次元を超えてしまっている場合においては、ハッピーエンドは約束されない。これは「ヴェーネ論」で書いたことだけど、「ハッピーエンドは失われた」という前提の上でどのように生きるかを選択することが重要になる。(積極的な自殺を選ばない限りは)
vol.2でのジョーの生き方は主に二つ。一つは多くの傷を肉体的、精神的に与えかねないほどの治療、セラピーを受けること。もう一つは、自分自身の特性を生かしてアンダーグラウンドな職業に身を投じ、生計を立てることだ。この二つは時系列的に独立して描かれる。
まず治療に関しては二種類の大きく異なる方法を選択するが、ジョーに与えたものは一つは新しい快楽であり、もう一つは絶望だったと言うべきだろう。前者は映画を見てそのまま受け取っていいと思うが、後者の絶望はアイデンティティに直結するがゆえの絶望だ。
絶望を経験するきっかけになったセラピーは依存症の患者たちのセルフヘルプグループに何度か顔をだしたことだが、そもそも顔を出すことが間違っていることにジョー自身も気づいていて、気乗りはしていなかった。だから容易に予想できた絶望であっても、ジョーは絶望をあえて経験してしまう。それも見せびらかすようにして、だ。
この開き直りにも近い絶望は、ジョーの境遇を客観的に見て堕落させていく(=アングラな職業に身を投じていく)のだけど、開き直りによってジョー自身の肩の荷がいくらか下りてしまうことが面白い。佐々木敦が述べたように、救済の不可能性をただただ伝えるためだけのこの映画において、状況の好転はいずれ堕ちていくためのジャンプでしかない。それでもあえて小さな救いを与えたのは(大きな意味では救いにならないとしても)ジョーという人間の可能性と、Pという少女との関係性を通じて新たな性関係を書きたかったからなのだろう。
ジョーとPはともに女性なのでいわゆる百合というかレズというかそのような関係性を構築してしまうのだが、少女であったはずのPが大人の女性に「なる」過程で二人の関係が深まってしまう点も、ジョーに対しては最初は救いであり、後に救いの不可能性につながってしまう悲劇でしかない。思えばジェロームとの関係も、救いであるように見えて救いなんかではなかった。
このように、ジョーは長い時間をかけて、まるでループするように救いとその不可能性をともに味わい続けている。同様に、「ニンフォマニアック」という自身のアイデンティティが揺らぎ(自分自身や他者に疑いを持つ)、崩壊(転落する)し、一瞬再生(救済される)したかと思いきや再び揺らぎと崩壊のループに陥るのだ。vol.1における、まだ若かったころのジョーが感じることなどほとんどなかったような、その後の姿である。
これらは映画の中ですべて回想された出来事である。聞き届けるセリグマンという明らかに怪しい紳士は、その好奇心ゆえに邪な関心を持ってしまう。そうした人間の結末も、たいていは悲劇的めいたものになるというお約束も、この映画はしっかりと忘れない。
本質的な意味で、救いなど存在しないのだと。「ハッピーエンドは失われた」ままであると。
ラース・フォン・トリアー
青土社
2014-09-27
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