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今泉と城定秀夫の共作企画の1本。今泉が監督をし、城定が脚本を書いている。この逆転バージョンが『愛なのに』というタイトルで作られている。城定が普段どういう映画を作っているのかは正直よく知らないが、よく考えたら今泉映画もこれでまだ4本目である。それに、過去に見た3作はいずれも原作がついているので、原作なしのオリジナル映画としては今回が初めてということになった。
亜子、広重、真美子、俊也。4人の男女がメインで出てくる映画で、亜子と広重は夫婦、真美子と広重は同僚、亜子と俊也はそれぞれマンガ家と担当編集、という形で相関図を書くとぐるぐると線が伸びている関係性だ。亜子と広重は離婚寸前で、それぞれ仕事相手である俊也、真美子と浮気をしている形になっているが、亜子と広重の間にはカンタという猫がいた。この猫を離婚後にどうするかがまとまらないうちに、カンタが脱走してしまう。つまり、「猫は逃げた」わけである。
ということで、人間の大人の男女たちがどうにもこうにも行かないところに、猫という「かませ役」がいることでストーリーが生まれ、4人の関係性も変化していく、という映画になっている。なんでもかんでも猫に託してしまうところが非常に滑稽であるが、そもそも人間の滑稽さを変化球的な形で映画にしてきたのが今泉力哉という人なので(『愛がなんだ』は原作との組み合わせも含めて素晴らしかった)、そうした今泉の特性を生かす脚本として仕上がっているのはよく分かる。
亜子を演じる山本奈衣瑠が初めて主演を務めているが、彼女の存在感だけでも見ていてよかったし、とても幸福感を得られた。とびぬけて美人という顔立ちではないが、だからこそ距離の近さをうまくコントロールするタイプの役柄にとても合っている。序盤、担当編集の俊也が亜子を後ろ向きでマッサージするシーンがあるが、それをさせる流れの自然さがあり、俊也がおしりをしっかりと触った時の「いちゃつく」会話があまりにもかわいらしい。これは俊也じゃなくてもやられますわ、である。
逆に言うと、広重はどこか地味で気だるい感じだし、俊也は明るくて前向きそうだがそれ以外の魅力を強く感じはしない。終盤の4人が集まる場面でも一番喋るのは亜子で、亜子に反論する真美子がいるが男性陣二人の存在感は乏しい。というのもおそらく意図的で、あえて「よく喋る、強気な」亜子と真美子がいて、その勢いに押される男二人がいる、という構図を作っている。なぜならば、この場にはまだ猫がいないからだ。
猫がいるかいないかで、男と女の関係性が大きく変わってしまう。ということはそれだけ猫に依存してしまった関係だと言ってよいのだろう。それが滑稽であり、「自立した大人」とは言えないわけだが、でもまあ別にそれでよくないですか?? と言われている気もする。『愛がなんだ』を思い出しても、そもそも今泉映画に「自立した大人」像はあんまり似合わない。自立していないからこそ、だらだらと他者に依存する。この映画では、人だけでなく猫にも依存する。
そういう意味での人間らしさ、いわば「弱い人間像」を映し出す作家性が今泉映画の魅力だとするならば、この映画はドンピシャで、つまりストレートを何球も続けて投げ込むような、そういう映画だったのだろうなと受け止めている。
◆関連エントリー
・関係性があいまいでコミュニケーションが不足している男女たち ――『愛がなんだ』(2019年)
・「語らない」と「分からない」から始まるコミュニケーションの行く末 ――『アンダーカレント』(2023年)
・正統な今泉映画としての高木さん ――『映画 からかい上手の高木さん』(2024年)
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