見:ソレイユ・2
一昨年に見た『四月の永い夢』もそうだった。現代の東京と、東京から少し離れたところにある(でも、遠すぎはしない)地方の町を往復しながら描き出す群像のリアリティには秀逸なものがある。若い世代を描きながら、東京でも地元(地方)でもその周囲を描くことで古いタイプの日本映画的魅力も同時に持たせているなと感じられるのだ。
前回が朝倉あき、今回が松本穂香という、地味すぎず派手すぎない、やわらかさと強さを持った女優を据えてくるあたりの面白さがあると思ったけれど、今回はさらに光石研を筆頭に周囲を固めるプレイヤーが冴えている。特に光石研がいい。飲んだくれ、嗚咽したり急に小便をしたりとどうしようもない姿を見せながらも、葛飾区の下町にある古い銭湯を一人で守り続ける。かたくなに。
松本穂香演じる澪は、彼女の東京での受け入れ人兼下宿先になった光石研演じる三沢を理解し、銭湯の仕事を覚えるところから始まっていく。その前に少し小さなつまづきや出会いもあったが、多くの人間がそうであるように、上京物語はそう単純には進んでいかない。けれども、小さな出会いは少しずつ力をくれる。
他方で地元の仲間や支えてくれた人たちの存在。祖母の残してくれた「わたしは光をにぎっている」というフレーズと詩集。澪は少しずつゆるやかに、あてどないかもしれないけれど、自分の日常を立ち上げていく。その先に東京での生活が続いていくことを信じて、彼女は生きていこうとする。
『四月の永い夢』のように、過去の恋愛が絡んでくることもなければ、それに向かって物語がまっすぐ進んでいくわけではない。むしろ物語の筋が見え始めるのは、もう残り30分か40分かしたころになってからだ。どうやって進めていってどうやって終わらせるんだろうと思っていたけれど、『四月の永い夢』とも重なるのは、誰かの死と何かの終わりであって、では澪の場合はそれらに対してどのように向き合っていくのか、といったことだと感じた。
澪の向き合い方も気になるが、それ以上にやはり一人ずっと銭湯を守ってきた三沢の心情も気になる。これが前作にはなかった魅力だろうと思った。光石研が役にあまりにもなじみすぎていて、こういうおっちゃんいるよな、というくらいの役になっているのがすごくいい。そしてそれに呼応するようにして、澪が自分の気持ちを表に出し始めるところもやはりいいなと思った。彼女はひとりで生きない方がいい。周囲に誰かがいて、ようやく澪は澪らしく生きていけるのだろう。そしてこう気づかされる。三沢の場合も、もしかしたらそうだったのかもしれないと。
展開がゆるやかで澪のキャラクターもふわふわしているので、正直つかみどころが微妙な映画ではあった。だが『四月の永い夢』から『わたしは光をにぎっている』はまっすぐ一本につながっている。どちらもまっすぐ地に足をつけて、現実をちゃんと見て、そしてちゃんと前を向いて生きていく、そういう物語だ。
コメント