見:Amazon Video
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Amazonビデオのレンタルにて。ChatGPTに『猫は逃げた』の次のおすすめを聞いたところこの映画を薦められたので素直に従って見てみたが、『猫は逃げた』よりはこっちのほうが好きかもしれない。ちなみに次は『his』を見ろという指示、もとい提案をもらっているのでそうなりそう。
元小説家で現ライターの主人公市川をゴローちゃんが演じているが、いつも以上に静かな役柄なので、演じているのか素なのかが良くわからない感じでもあった。その市川は妻と会話の乏しい日常を送っているが、それが大きな不満になっていないという感覚もあった。小説編集者の妻は担当の小説家と浮気をしており、それをどのタイミングで伝えるか、いや伝えるべきかを思案しながら過ごしていたが、そんな中である小説の新人賞を受賞した高校生作家・久保留亜と知り合う。彼女への単独インタビュー?の機会をもらった時に久保からさらに興味を持たれたのか、その後も喫茶店などで二人で会うようになる。
素なのか演技なのかが曖昧、かつ会話がアドリブっぽく作られている点を指摘するとGPTからは濱口竜介の影響かもしれないと指摘を受けたが、確かにこの映画は今泉映画というよりは濱口映画っぽいと感じる。それはゴローちゃんが対面する高校生作家の久保を演じる玉城ティナも同様で、玉城もまた演技のような演技でないような空気感を漂わせているからだ。市川と久保の間にはずっと何か独特の間合いが流れているだけでなく、アドリブのような会話が続き、まるで初めて聞いたかのような反応をする様子が非常に多かった。
これを濱口っぽいと指摘するのは、あながち間違っていないと思う。ただこの映画の次の年に公開された『アンダーカレント』を思い出すと、この映画で培った間合いや会話が、次の映画にも行かされているのではないかと感じた。あの映画もまた、他者の感情を理解することの困難さ、あるいは感情を人に伝達することの困難さという形で、コミュニケーションの困難に焦点を当てていたからだ。
最も印象的なコミュニケーションの困難は、市川の友人でアスリートの有坂正嗣と、その妻および浮気相手との間に発生する会話だ。妻であるゆきの(志田未来)は有坂の浮気のことをすでに知っているが、だからと言って別れる気はなく、むしろ自分は有坂のことを好きであると強く感じたことを市川夫妻に伝える。有坂の浮気相手であるモデルのなつは、自分が好かれているのは嬉しいが、妻を差し置いている現状につらさも覚える。有坂が身近な女性を混乱させるのは、有坂自身がそのコミュニケーションの困難と向き合っていないからなのである。
では、対話を重視した映画なのかというと、そうとも限らない。むしろ対話のような「真剣な話し合い」というよりは、日常的な会話を重視する映画だ。だから喋ったところで何かが解決したり、スッキリしたりとか、そういうのがあるわけではない。ただ、特に市川のように仕事では言葉を尽くそうとするのに、最も身近な存在である妻との間には言葉が少なかったことを自覚していくプロセスがそのまま映画になっている。有坂にしてもそうで、自分がいま何を抱えているのかを認識し、言語化する作業がそのまま映画になっているのだ。
市川の話に戻ると、彼の場合は言語化して文章化する能力は仕事柄十分に培われているけれど、そもそも感情を認知できなければ表現できないし、相手に伝わらない。相手に伝える前に、まず自分が気づくこと。そういう意味で「会話のリハビリ」を繰り返す映画だったと思う。久保と親しくなることで、これまで出会わなかった人と出会い、会話を交わす。そのプロセスもまた、「ちゃんと会話をする」という市川のリハビリになっている。彼の場合は感情の言語化が重要なんじゃなくて、感情の認識が重要だからだ。
同時に、市川と何度も会おうとする久保にとっても、これはリハビリテーションと言っていいのかもしれない。それは自分の知らない社会、つまり子どもの世界ではなくて、大人の世界と出会うための練習である。練習という点では、終盤にラブホで久保と市川がトランプで遊ぶシーンが面白い。もしかしたら久保は市川とセックスしたかったのもしてないけど、未成年だから「しちゃいけない」というもどかしさもあった。でも市川と「何かをしたい」と思っている。どうすれば良いか? 考えた上でのチョイスがトランプだったのだろう。トランプとは大人も子どももできるカードゲームであり、「何が起こるのかがわからない」のを二人で楽しむゲームである。
ラブホにわざわざ男性を呼びつける(交際相手ではない)ということは、そうなっても悪くないかなって気持ちや期待感がいくらかあったはずだ。いつもなら喫茶店なのに、普通の会話でラブホは使わない。だからあのシーンは背伸びしたい、早く大人になりたい、でもなれない。誠実な市川は自分を襲うことはないだろうが、かと言って自分からは倫理的にセックスを誘えない、というもどかしさが読み取れる。市川とどうにかなってもいいって言う期待感を隠すつもりはない。しかし、隠さないけど行動に映せない。このもどかしさを、玉城ティナが自然体に演じていることでとてもユニークな場面に仕上がったのがとても面白かった。
いずれにせよ、会話のリハビリ、あるいは会話の練習は誰かのためじゃなくてまず自分のためにあるものなのだと感じた。市川は自分の感情の所在(誰に対してどのような感情を自分は持っているのか)を探すため、有坂は自分の感情の説明方法(どのように説明すれば、二人の女性にうまく伝えられるのか)を探すため、そして久保は自分の感情の届け方(自分の感情を伝達するための、表現のアプローチ)を探すため、である。最終的にドラマを作り上げようとする濱口映画とは異なり、この私的な人間性の追求にこだわるのは今泉っぽいなと、改めて思う。
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