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先日『ラストレター』でアラフィフとなった中山美穂と豊川悦司のコンビを見て、これはちゃんと『Love Letter』を見ておかないとな、と思ったのが本作を見た動機。そして率直に、これはなるほど『ラストレター』が完全にセルフ二次創作だと感じた。前述したように俳優もダブってるいる(ダブらせている)のはセルフオマージュに他ならないし、いずれの作品でも10代と現在の日々が往復するように映画に投影される。
つまり、映画を通して現在を生きるキャラクターたちにとっては一つの追想、あるいは追憶であり、『ラストレター』がどちらかというと老いることへの向き合い方や、中年と10代のきらめきの違いのようなリアリズムに目を向けたものであったとすると、『Love Letter』はかなりロマンチシズムに寄っているな、と感じた。
でもどちらかというと「気持ち悪いな」と感じるのはかつての思いを断ち切れずに40代になって東京から仙台へと巡礼を始める乙坂(福山雅治)を描いた『ラストレター』であって、自身の思いを断つために神戸から小樽へ向かう博子(中山美穂)を描いた『Love Letter』はむしろ心地良さがある。それは、乙坂だけが過去にずっと生きている存在だったからだろう。松たか子演じる裕里はかつてのように姉になりすます快感を覚えながらも、現実から逃げているわけではない(夫とうまくいかないという現実はあるとしても)。乙坂だけが、ただただ過去に生きている。過去にとらわれたまま生きている。その乙坂を過去から解放して現実に引き留めるのは、とても正しい行為だった。
他方で『Love Letter』の博子は、亡くなった婚約者に送った手紙がなぜか届いたことによって、その婚約者と同名の誰かと文通を始めることになる。ここでの博子も確かに過去に生きているように見えるが、彼女の場合乙坂とは違い、愛した人の死を知っている。知ってはいるがすぐに受け入れられない、いわば受容拒否のような状況にあると言える。人間はショックな出来事をストレートに受け止めてしまうとたびたび壊れてしまうため、防衛機制のような形で様々な心の動きが起きる。博子の場合も、病的なほどではないが、いずれ受け入れていくための一時的な拒否的状況がこの映画のスタートラインだったのだろうと感じた。
だからこそ、「お元気ですか?」と冬の雪山に向かって叫ぶ博子が印象的に見えるかもしれない。亡くなった人に対して「お元気ですか?」と問いかけるのは非現実的ではある。だがこの映画ならではの設定によってこの言葉が別の誰かに対して特別な響きを持つ。同時に、この時点で笑顔で雪山に叫ぶ博子の姿は、死の受容を拒否していたころとは全く違う。
すべてを知った乙坂が幸福だったと言うのは難しいだろう。だが、映画が終わるときの博子は、この映画の中でもっとも幸福そうな姿を見せてくれる。彼女にとっては、彼女なりのやり方で死を受け入れ、かつて生きていた婚約者の記憶をも受け入れること(まさに「あなたの思い出を分けてください」である)が、いわば幸福な追想の形を目指すことこそが必要だったのだろう。そしてそれが達成されたから、すべてを受け入れた上で、彼女は叫ぶ。誰もいない方に向かって、全身で、大きな声で。
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