Days

日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。



 原作が話題になったのは3年前の夏だが、原作を最後まで読まずにこの映画に臨めたのは結果的に良い選択だったかなと思う。まあそれはただの偶然で、3年前何で原作を読まなかったかというと読む時間的余裕がなかったからだと気づいた(第4回公認心理師試験の直前だったため)。

 まあそれはさておき、原作読者にとっても「原作のキャラに絵がついて動いている」だけで興奮の度合いは強いだろうし、全編にわたって音楽を手掛けているharuka nakamuraが本当に素晴らしい! 映画にすること、スクリーンで流すことの魅力の一つは音楽だと思っているが、これはもう本当にベストの選択肢だったのではないかという思いを強くした。



 ちょうど主演の声優を務めた二人の短いインタビューが公開されていたので見てみたが、河合優実が語る「同じジャンルで絶対にかなわない」という感情を60分間ドライブさせ続けた映画である。中編として公開された原作の魅力はその短さだったと思うが(中盤で起きる事件のことなど、重要なことこそ詳しく書かない)、映画で60分だと本当に短くてあっという間に終わる。そのあっという間のひとときの間に、猛烈なエネルギーを注ぎ込んだことが分かる作画と、背景と、前述した音楽の力強さがとにかく光っている。あえてアマチュアっぽく描いた部分も含めて、粗削り感(not well-maid)が魅力だ。

 河合の語るように、圧倒的な才能を見せつけられた時にどう感じるかと観客に問いながら、しかしこの映画はとにかく愚直に「努力の継続」を表現した映画でもあるなと思った。「努力できることが才能」だとかつて松井秀喜は本に書いていたが、この映画ではとにかく机に向かって漫画を描く場面が非常に多く出てくる。最初は一人で自室の机に向かって、途中からは二人で同じ部屋で共作をする。コンビを解消してからはまた一人になるが、プロになっておそらく東京に出た藤野は、ビル群が見える部屋で、ワコムのタブレットに向かって必死に絵を描いている。かつて雪国の田舎で、紙のスケッチブックに様々な習作を描きなぐっていた日々の延長線上に、大人になった藤野、プロの漫画家になった藤野の姿が明確な差異を以て描かれている。

 他方で、一人で描くということの辛さも藤野は忘れていない。一人というべきか独りというべきか、藤野の中にずっと残り続けている京本の残像は、プロになった彼女に何を残したのか? 映画の後半は、ルックバック、まさに二人の関係性を振り返る場面が続いてゆく。藤野が京本をずっと追いかけていたように、京本もまた藤野を追いかけていた(のかもしれない)ことが分かった時、交わらなかった線が交わる瞬間の感動も覚えるわけだが、逆に言うと二人がそれぞれの背中を追いかけていた、というのがとても美しいのだと思う。背中を追いかける限りは、一人(独り)ではないから。誰かのために描き続ける、創り続けるという思いは、絶望の時ほど救いになるかもしれないから。

 そして離ればなれになってもなお「残されたものがある」ということもまた救いになるのかもしれない。創作という営みは常に過去残されてきた先人たちの、いわば巨人の肩に乗っている部分も大きい。でもその巨人が見知らぬ誰かではなく、自分にとって最も大事な人であったと気づいたならば。 生きている人間ができることをする。藤野の愚直さは、プロになってもまだ続いてゆくのだろうし、それは不世出の作家である藤本タツキというリアルな存在ともダブるのかもしれない。

 最後の方、この映画を見ながら東村アキコの『かくかくしかじか』を読んだ時のことを思い出していたが、東村にしろ本作にしろ、こういう自伝的で、私的な作品だからこそ持っている無二のエモーショナルな体験のできる映画でもあったと思う。






不動心(新潮新書)
松井 秀喜
新潮社
2012-06-01

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