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ファン・ボルムの小説『ようこそ、ヒュナム洞書店へ』を読んでいた時に言及されていたのが『リトル・フォレスト』だった。オリジナルである日本版なのかリメイクである韓国版なのか、小説の中ではどちらへの言及なのかがややはっきりとしなかったものの、韓国版がちょうどアマプラで見られるということで見てみた。小説が忙しい日常や過酷な競争社会からの避難所としての独立系書店をテーマにしており、主人公がソウルから「逃げ帰って」来た田舎の故郷で一年間を過ごす『リトル・フォレスト』とは、似ているものがあるのだろう。だから小説の中で固有名詞が出てきたのだ、と思った。
橋本愛主演の日本版は2部作だが韓国版は四季を1本にまとめており、ぎゅっと凝縮されているのであっという間に一年間が過ぎてゆくのが印象的だ。キム・テリ演じるヘウォンは大学入学以降ソウルで暮らしていたものの、恋愛も就職もうまくいかずにコンビニバイトをする生活にもがいていた。交際している彼氏には何も告げず、逃げるようにソウルをあとにして故郷に戻ったヘウォンは、母の遺した家で料理をしたり、庭で野菜を育てたりして日々を過ごす。地元に残っていた女友達のウンスク、そして同じくソウルから故郷に戻り、農業で生計を立てている男友達のジェハ。日々の豊かな生活と、3人で過ごす日々がヘウォンの内面を少しずつ変化させてゆく、という内容。
これはおそらく漫画原作や日本版でもそうだと思うが、まずメシがことごとくうまそうである。例えば粉からこねて作るすいとんは、韓国風にチゲ鍋っぽくアレンジする。はたまた朝起きて作るサンドイッチを、軒先でほおばる姿。こういう生活への憧れは、都会で疲れた人々の癒しになるだろうし、羨望にも映るだろう。ただ一年間を凝縮したこの映画は、そうした「ていねいな暮らし」を描くわけではない。暮らしのパートは主眼ではないからだ。
ヘウォンにとっての故郷は逃避先である。だからずっとここにいるわけではない。ここは、自営をしているジェハや地元の金融機関で働くウンスクとやや対立する部分でもあり、ウンスクとはケンカもするシーンがある。友人たちと仲良く過ごすのも大事だが、同時に自分の人生を生き直す、あるいは編み直すことをヘウォンはずっと考えている。
だから彼女は、母の記憶を頻繁に思い出す。最近の韓国文学でも母の記憶、あるいは祖母の記憶といった形で主人公の女性が上の世代の経験に思いを馳せる展開はよく見られるが、この映画も記憶を辿りながら単に共感的になるだけでなく、自分の人生を同時に考えようとしているのがポイントだ。友人たちや近所の人が受け入れてくれる故郷は優しい場所に見える。それでも、定住する意思がないのであれば優しい場所にいつまでも甘えていられない。だから友人たちとの会話、記憶の中の母との対話を通じてヘウォンは少しずつ自信を取り戻してゆく。
そんなヘウォンの心境の変化の起きた一年間を約100分に凝縮することで「あっという間」に見せるのもこの映画の良さだと思う。同時に、あっという間でも料理や農作業のディテールは忘れない。そうした細やかさが映画の観客に見せるものは、生活というものの豊かさなのかもしれない。都市生活では失われた生活の細やかさ(材料から料理を作ったり、種や苗から野菜を育てたりする行為)が、人を癒すこともあるのだと。
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