見:ホール・ソレイユ
高校時代は日本史選択だったものの伊藤野枝と大杉栄についてはそれほど多く知らないなと言うことと、ちょうど大河ドラマ『光る君へ』で紫式部を演じる吉高由里子が伊藤野枝をどう演じるのか単純に気になったので見た、というところだった。実際は2022年にNHKで放映されたドラマの劇場版なので撮影自体はこちらの方が大河よりは先だが、時代は全く違うものの期せずして「書く女」を吉高は演じたのだなあと思いながら見ていた。
紫式部も父親の為時から「男だったらよかったのに(と思うほど学問の才能がある)」と思われていたというのは有名な話だが、それでも彼女の場合は書くことを武器にして宮中で自分にしかできない役割を発揮した女であり、男性社会の中で女だからこそ果たせた役割を全うした、という印象である。それに比べて(まあ直接比べるのもどうかと思うが)明治・大正期を生きた伊藤野枝は家父長制の最中にいる、文字通り力のない、弱い女である。子どものころから本だけが自分の味方だったという風景だけは紫式部がよぎるものの、没落寸前とはいえ貴族の家に生まれた式部と、福岡の片田舎で生まれ、結婚の自由も当然なく、という環境はやはり構造的な立場の弱さを思わせる。
とはいえ、だからこそ伊藤野枝という女を生み、彼女の言論や思想が生まれたのだということもよくわかる。同時に英語教師であった辻潤との「不適切な」恋愛や、その後の大杉栄との「不倫」など、一見すると「恋多き女」のようにも見える一面がある。ただこの映画は(そしておそらく原作の村山由佳も)そのような単純な見方をとらない。福岡からはるばる東京まで出てきてなにも後ろ楯がなかった野枝を育て、彼女のその後をアシストしたのは紛れもなく辻潤であるし、その後の生活を支えたのは大杉栄だった。同時に野枝自身も言論活動(映画では文学と表現されている)を通じて働き、辻や大杉を支えてきた。こうした経歴を過度にスキャンダラスに描かずにあくまで野枝という女の一生をリアルに描くんだ、という思いはよく伝わってくる。
野枝の、時には理想主義的とも言える思想をセンチメンタリズムと映画の中で切り捨てるのは辻潤だが、しかしながらそのセンチメンタリズムを心に宿したまま失わないからこそ野枝は書き続けたのだろうし、大杉栄も惚れ込んだのだ、という構図になっている。野枝は現代的な立場から考えるとラディカル・フェミニストと言って良いだろうし、その精神はアナーキストである大杉栄と共鳴するものがあったのだろうということはよく分かる。
他方で最初は憧れの存在だった平塚らいてうとも途中で道を分かつなど、既存の構造的暴力や不平等に立ち向かい、警察や軍隊の横暴に屈することなく立ち向かうことは容易ではない。思想家でありながら同時に多くの子を育てる母でもあった野枝にとって、自分の思想を生涯に渡って訴え続けることは一人では貫徹できなかったかもしれない。 『光る君へ』では因縁の相手でもある藤原道兼を演じる玉置玲央が野枝や大杉の不在時に子育てに奮闘する様がなかなかほほえましい。野枝や大杉が目指した利他的な共助の精神というべきか、子育てのアウトソーシングというべきかは少し難しい気もしたが。
伊藤野枝が生きた時代と現代とではあまりに社会状況や時代背景が違うため、安易にアナロジーで語るようなことはしたくない。その上でこの映画をいま見るべき価値があるとすれば、すでに何度も触れたように女の一生における困難や立場の弱さにもっと目を向けろ、私たちのことをもっと知れ、という野枝の強い思いに耳を傾けることだろう。
Me, too運動をひとつの契機として何度目かのフェミニズムブームが世界的に発生しているが、それは同時に多くのバックラッシュを巻き込んだ形で展開されている。フェミニズムの隆盛とそのバックラッシュはこれまでに何度も目にした光景であるが、何度繰り返してもなお変わらないもの、変わらない側の強固さを突きつけているようでもある。しかし本当にそれで良いのか? 良くないからこそいまの社会には多くの構造的な問題があるのではないのか? といった問いは映画の中で伊藤野枝が何度も叫んでいた言葉とパラレルなものだろうと感じる。
社会の変化は容易には訪れないし、アナキズムは現実的とはいえないし、そもそも「資本主義だけ残った」(ミラノヴィッチ)世界をある程度前提としなければならないという多くの留保は当然残るだろうが、だったらこのままで良いという安易な現状肯定がはびこりやすい社会にとって、強いインパクトを残す映画になっている。それくらい、吉高由里子は見事に伊藤野枝だったと思う。
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