表題作の「シェア」が芥川賞候補になっていたので読んでみたのだが、これが予想外に面白く、受賞するのはおそらく滝口悠生だと読んでいたがこちらも別な角度からもっと評価されていい小説だと思った。純文学として読むにはいささか軽さが際立ってはいるものの、表題作の「シェア」も、文学界受賞作を受賞した「サバイブ」も異質な他者と共存する方法をめぐる小説だ。前者が女性同士、後者が男性同士のホモソーシャルになっていて、百合ともBLとも読めなくないような構造になっているが、同性である相手に不思議と惹かれていくのはなぜなのかであったり、それぞれ仕事、家事という関係で共同して生活する中に何が見つかるのだろうか、という探求は文学的な好奇心に満ちている。
「シェア」は池袋でAirbnbのような民泊システムを立ち上げて運営する元IT企業勤務のデザイナーであるミワと、ベトナム人留学生であるプログラマーのミーの物語。タイトルにあるシェアは私とミーの共同作業のことをも表すのだろうが、民泊という形で見知らぬ誰かと部屋をシェアするという意味もこめられている。あともう一つ、ミワが元夫との間で元夫の立ち上げた会社の株をシェアしているという状況をも指すかもしれない。いずれにせよ、シェアによる可能性と窮屈さの先に何が見えてくるのかという探求だ。
池袋の前は荒川の一軒家で民泊を運営していた二人だが、ご近所の視線というマイナス要因によって池袋のマンションへと方向性をチェンジする。「サバイブ」もそうだが、同性同士の関係を書きながら外部から異性がやってくることで物語が加速していくところもポイントだろう。私は元夫との関係をなんとかしなければならないし、ミーはいつのまにか同じマンションで一人暮らしをしている男子大学生から分かりやすい好意を向けられてしまう。それでもそんなことは小さな壁でしかない二人にとってはロジックを使って乗り越えていこうとする。ミワもミーも、基本的に現代的でエネルギッシュな女性だ。男なんて、という思考は常に垣間見えるし、ミーの場合は日本社会なんて、という俯瞰すら持っていたりする。
ミワはミーのそうした怖い者知らずなところに私は汗をかいたりするが、ミーは奔放なままに大学生との「勉強会」や就活の面接にも行ったりする。楽勝という本人の言と私の実感が食い違うところはまさにコモンセンスや慣習の違いがあらわになるところだろうけれど、私とミーの関係はしかしそうした差異があるからこそ成立していることが逆に強調されるのではないか。ミーは奔放ながらもミワを慕い、日本でミワのビジネスを支える。ミワはミーの奔放さと素直さを嫌いになれないどころか惹かれてゆく。もちろんふたりがどうなる、というタイプの小説ではないが、日本社会で女性が、しかもミーのような異国の女性が「活躍」するなんてのはまだまだ難しいだろう。能力があったとしても様々なものが彼女たちと阻む。だけれど、だからこそ、二人なら大丈夫だと言える強さを二人は持っている。
対して「サバイブ」のダイスケは客観的には持たざる者だ。しかしともにハイスペックで高年収の亮介、ケーヤ(と、犬のマイケル)との共同生活の中では彼は持てる者になる。家事は万能、料理も洗濯も掃除もばっちりこなす。請われればフットサルチームの助っ人にも参戦する。自分自身が二人のような存在と同居することに違和感を捨てられないダイスケは女じゃなくていいのか、と聞くがお前でいいよ、と返されるのだ。飲食店で働くフリーターのダイスケにとっては、亮介とケーヤの与えてくれる承認は単なる存在の肯定ではなく、自分自身も持たざる者ではない、という自負を与えてくれることだろう。
そのダイスケの前にレナという女性が現れる。彼女もまたハイスペックで高年収の部類で、高級マンションで一人暮らしをしている。「頭を使う人と時間を共有すると成長するのよ」(p.178)と語る彼女は奨学金女という異名を持っており、慶應大学在学時に授業料免除を得るために努力をしたという、天才肌とは違うタイプだ。対して、亮介とケーヤの過去はあまり明らかにされない。ダイスケと二人の会話の中で昔どうだったの、という話題が出ることもあるが、亮介とケーヤの現在はいくらか見えている程度だ。だからこそ終盤にダイスケが下した決断に対するケーヤの態度と亮介の態度の差異にダイスケは驚く。二人を保証するものがなんだったのかを、垣間見ることになるのだ。
「シェア」における異性、つまり男性キャラクターはあまり好意的に書かれないしさほど魅力的とは言えなかった。対して「サバイブ」のレナは非常に魅力的だ。彼女がダイスケの何を気に入ったのかは最後にほんの少し明らかにされるだけだが、同じハイスペックな高年収クラスタの亮介とケーヤとは少し違う匂いがする。彼女自身が努力の人であり、また自分自身の努力の可能性と限界をはっきりと見据えているからだろうか。(それはケーヤに欠けていたことかもしれない)
いくら近くにいたとしても、他人はしょせん他人かもしれない。しかし他人だからこそ見えてくる可能性がある。それにどれだけ賭けることができるだろうというのが、ミワとダイスケの持っていた問いだ。二人はそれぞれ違った決断を下すが、どちらが正解とは言えない。決断はいずれまた成さねばならないかもしれない。ただ重要なのは、身近な他人とのコミュニケーションの密度だ。お互いをもっと知っていくこと、それができなければ可能性はしぼんでいくが、それさえできれば可能性は開けていく。たとえば、「サバイブ」のダイスケがレナに対して抱く好奇心、つまり彼女と彼女の部屋に見た「コード」に。
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