見:Jaiho
60分を少し超えるくらいの短い映画で、登場人物も限られた人数しかいない。加瀬亮演じるモリという日本人の青年が韓国を訪れ、ある女性を探すだけというシンプルなストーリーだ。モリは韓国で親密にしていた女性がいたが、あるときから連絡がとれなくなり、彼女を追いかけて韓国に来た。会話の流れを見ていると、仕事を辞めて韓国にまで来たようで、ただ単に人探しに来たわけではなさそうである。
そのモリだが、本当に人探しをしているのかどうかが、映画が進んでいくとよくわからなくなってくる。あるときは宿泊しているゲストハウス近くのカフェのマスター(女性)と懇意になり、彼女の部屋を訪れることもある。またあるときは、同じ宿で暮らしている男性と飲みに出掛けることもある。モリは結局何をしにわざわざ韓国にまで来たんだっけ? と疑わしくなる場面がやたら多い。
そしてもうひとつ気になるのは、モリが毎日一冊の文庫本を持ち歩いていることだ。表紙から察して検索すると、講談社文芸文庫から出ている吉田健一の『時間』だということがわかるが、まさにこのタイトルである「時間」が非常にくせ者なのである。なぜならば、本作でもっとも重要なのが時間だからである。
「自由が丘で」とあるのは、モリの通うカフェの店名が「自由が丘8丁目」という日本(東京?)を意識したらしい店名だからなのだが、この空間において時間は単線的に流れない。なぜなのか、その仕掛けは映画の中で明かされていて、なるほどと思う。
しかし、仕掛けがわかったところで新たに疑問に思うのは、結局モリは意中の女性と出会えたのかということだ。映画はこの女性を前半は不在なまま描写するが、後半ははっきり登場させるようになる。彼女は実は不在でもないし死んでいるわけでもなく、生きている。ただいくつかの事情があって、行方をくらましていたことは説明される。そして、モリも彼女の再会を果たす。ではこの映画はハッピーエンドと言えるのか?
それがまたよくわからないのが、この映画における時間のトリックだ。現実の時間は不可逆には流れないし、フィクションの中でもその規律を守ることが多い。ただこの映画は、ある仕掛けによってその規律を順守しなくても成り立つ設定に仕立てあげた。そうした時間の歪みと、モリのふらふらとした韓国での暮らしとが妙にマッチして仕方ない、そういう不思議な映画なのである。
モリの日々には何もないように見えて、あらゆる小さな出来事が起きている。そうしたディティールに目を凝らすことで起きるドラマ、いわゆる日常系アニメが得意として来た手法も実は取り入れられているように思えた。日常系の手法と、時間の流れが曖昧に感じさせる手法の相性のよさは、日本のアニオタならよく知っていることだ。
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