見:Amazon Prime Video/filmarks
ホン・サンス映画5本目。3人のアンヌ、というタイトルを見てまず思いついたのはこの映画にはアンヌが3人出てくるのだろう、というイメージだった。実際に確かにアンヌは3人登場する。しかし、演じているのは同一人物(イザベル・ユペール)のフランス人女性だ。ユペールが韓国のある小さな海辺の町を訪問する、というストーリーが3パターン執筆されている、というメタフィクション映画でもある。作中作としての短編映画を3本続けて見せられる気分だ。
映画.comのあらすじ紹介によれば「成功した映画監督、浮気中の人妻、離婚したばかりの女性という、それぞれキャラクターの異なる3人のアンヌをユペールが演じ分け、3人のアンヌは同じライフガードの男性に出会い、言葉の壁を超えた恋模様が展開する」とあるが、ユペールの演じるアンヌはどこか似ている。それは皆それぞれにロマンスを求めている点だ。韓国に来た理由はそれぞれに異なるが、「ワンチャンロマンスがあるかもしれない」という願望。そしてそれを受け止めたり、受け止められなかったりする若いライフガード。この年の差の関係がどうなるのかも、一つの見ものである。
いつも通り、ミニマルな空間、ミニマルな人間関係、会話劇中心のストーリーだが英語でコミュニケーションを取ろうとするユペールがいることで必然的に英語と韓国語が飛び交う場面が出てくる。2者間の会話であれば英語でよい(ライフカードとの会話など)が、大勢がいるところだと一人しかいない英語話者の事情は優先されない。こうした「居心地の悪さ」とそれでも飛び交う英語(韓国語を解さないという意思表示)という微妙な空気感を、観客も体感させられる。
また、共通しているのはアンヌがライトハウス(灯台)を探している点だ。探しているのであって、たどり着けたかどうかは明らかにされない。灯台を探すということは、今後の人生の針路に迷っているという心理の表れなのかもしれない。あるいはいま自分がいる地点(小さな海辺の町)を客観的に明るく照らしてくれる存在が必要なのかもしれない。韓国語を解さないアンヌにとって、周りの人が自分のことをどう思っているのかは分からない。本当に快く思っていない可能性がある(しかしその真偽は字幕を通して日本の観客には伝わる!)。
反復する映画だが、反復しても灯台が見つからない(そこに向かっている)のも一つのミソなのかもしれない。つまり、形を変えて繰り返せば何かがうまくいくわけではないということだ。転じて、映画というフィクションなら疑似的な反復が可能だけれどそれは映画という手法がなせることであって、現実はそうじゃないよねという空想かもしれない。
あるいは現実的ではない空間を表出させつつ、反復に夢を見せないことに意味があるのかもしれない。反復しても違う現実があるだけなのだ、と。
◆関連エントリー
・「物語が始まる」までの遅さ、威風堂々のこっけいさ ――『教授とわたし、そして映画』(韓国、2010年)
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