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ホン・サンス映画10本目。今年だけで8本も見ているわけだが、ようやく10本目になった。冒頭で2018年の1月〜2月の間に撮影された映画と紹介されるので、今から数えるとちょうど7年前の撮影になる。7年前のキム・ミニは、やはり美しい。例によってそういう映画だなとも言える安心感がある。また、冬の光景をモノクロで撮るのは『次の朝は他人』の応用だろうとも感じた。
漢江のそばのホテルが舞台。主人公は詩人のコ・ヨンファンで、ホテルの社長と知り合いという縁があってこのホテルに長期滞在することになった。別の部屋にはキム・ミニ演じるサンヒが滞在しており、途中からは女性の先輩も同室する。はっきりとは述べないが、おそらく恋愛関係で「何かがあって」泣き叫びたいほどに傷心し、消沈しているサンヒを優しく受け止める先輩。そして二人がホテルの外を歩く姿をたまたま目撃するヨンファンは、二人に急に話しかけてしまう。
ヨンファンがサンヒたちに話しかけるのがあまりにも唐突なので驚いた(まるでナンパしているようでもある)し、その後に語り掛ける言葉のストレートさにも驚いた。ただ、詩人であることを明かすため、そのストレートな表現が「詩的な表現」と受け取られるというズレがある。この映画はこの時点からずっと、ヨンファンと他者との間の、コミュニケーションのズレを描写し続けるのである。
ヨンファンは息子2人を呼び寄せるが、なかなか会うことができない。連絡する手段を持っているのかいないのかもよく分からないが、ホテル従業員の女性を通じてヨンファンと連絡を試みる場面から察するに、直接的な手段はないのかもしれない。「息子2人をホテルに呼び寄せている」にも関わらずである。息子たちとヨンファンは最初コーヒーを一緒に飲み、後半ではお酒を一緒に飲むが、一貫してコミュニケーションがかみ合わないのだ。
ヨンファンはおそらく、「言いたいことを言うだけ」の老人の象徴のように見える。つまり、孤独で、孤立している老人だ。自分が詩人である、という一点にはアイデンティティがある。自分は父親であるというアイデンティティは、息子たち2人を前にしたディスコミュニケーションが象徴するように、あまり強く認識されない。父親として振る舞いたいのに、息子たちからは尊敬されることがない。むしろその振る舞いの唐突さや会話の噛み合わなさについて、息子たちに心配される父親という像を結んでしまう。
他方でサンヒは先輩の前で自分の心の内を滔々と話すことができない。ゆっくりと、自分のペースで語ろうとする。観客はサンヒが何を語るのかをとても気にしている。過去のトラウマが今の精神状態を規定する点は、『夜の浜辺でひとり』にも共通する点だ。ただ今回は長い映画ではないしサンヒが主人公ではないので、『夜の浜辺でひとり』ほどに饒舌にはならない。ただただゆっくりと語り、それを優しく聞く先輩との構図が静かで美しいものとして描写される。
男同士のコミュニケーションが徹底的に噛み合わない一方で、女同士の寄り添いは優しく包み込むようでもある。サンヒの回復の過程を描くことで、よりヨンファンの孤立を深める演出にもなっているのがとても皮肉である。この映画の中で、ヨンファンに寄り添う人は誰もいない。だからこの結末は容易に予想ができてしまうのだ。そして、こうなってしまう前にできることはもう、ほとんどなかったのかもしれない。
◆関連エントリー
・スローで退屈な前半と、忙しくておしゃべりな後半 ――『浜辺の女』(韓国、2006年)
・薄っぺらくて饒舌なだけでは ――『よく知りもしないくせに』(韓国、2009年)
・「物語が始まる」までの遅さ、威風堂々のこっけいさ ――『教授とわたし、そして映画』(韓国、2010年)
・ループするけど終わりは来るし終わらせないといけない ――『次の朝は他人』(韓国、2011年)
・まどろみとさみしさ ――『へウォンの恋愛日記』(韓国、2013年)
・海辺の風景を反復する、灯台を探して ――『3人のアンヌ』(韓国、2013年)
・何もないようで、小さな何かが起こり続ける ――『自由が丘で』(韓国、2014年)
・ヒジョンの密かな企みについて ――『正しい日 間違えた日』(韓国、2015年)
・逡巡する、タバコを吸う、声を上げる ――『夜の浜辺でひとり』(韓国、2017年)
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