見:Netflix
Info:filmarks/IMDb/Letterboxd
ネトフリオリジナルからなにかを選ぼうと思って選んだ一本。ちょうどこれが今年の100本目だったが、自分でもいいチョイスだったと思う。いわゆる「ケアの倫理」というものを学ぶ時の教科書代わりになりそうな映画であり、終末期医療における意思決定の問題(延命治療の可否とその合意調達の方法)についても丁寧に触れられている。ちなみに安楽死の世界的な動向や各国比較は児玉真美の同書が非常に参考になる。仮に安楽死制度がある世界だとしても、また別の複雑な倫理的な問題が発生する。
全体的には会話劇なので、誰かがずっと喋るような講義スタイルというわけでもない。会話は続くがなかなか対話にならない中、どうやって突破口を見出すのか? に着目して見る映画だ。自宅で週松木ケアを受けている父親のもとに集まった3人姉妹。ケイティとクリスティーナはそれぞれ自分の家族の元を離れてニューヨークの父所有のアパート(姉妹にとっての実家)に滞在。独身のレイチェルは実家住まいで父と同居していたが、急にやってきた姉二人との関係に戸惑う様子が一貫して描かれる。
ケアの主導権を握るのは長女であるケイティだ。しかし彼女のリーダーシップは、姉妹間の関係性という文脈の中ではうまく機能しない。もしケイティが一人娘で、父親意外には訪問でやってくる医療従事者(訪問看護師のミラベラと、ホスピスのソーシャルワーカーであるエンジェル)だけであれば、この映画は成立していない。トラブルになる要因がないからだ。つまりこの映画は、父の危篤をきっかけに三姉妹が「集合してしまったがゆえに」起こる問題が映画の関心なのである。
映画をじっと見ていると、おそらくこの3人はさほど仲の良い姉妹ではなさそうだということ、しかもレイチェルだけが異母姉妹であることがわかる。レイチェルの出生についてははっきりと明かされないが、他の姉妹二人と年齢が大きく離れているわけではなさそう(アラフォー〜ミドフォー程度の
年齢)なので、おそらく父の再婚相手の連れ子である可能性が高い。レイチェルは2人に遠慮してか、雑談には応じるがケアの議論に関しては沈黙を貫く。そして2人がやってきてからは頑なに、父の療養している部屋に入ろうとしない。そして自分の部屋でスポーツベッティングをしたり、外に出て麻薬を吸引するのである。
主導権を握るが同時に火種を作り続けるケイティ。沈黙を貫き、2人の姉妹と距離をとるレイチェル。分かりやすく対立してしまっている二人の間で板挟みになりながら、なんとか融和的な方向を模索しようとするのがクリスティーナだ。彼女はこうした、こうすべきといった思想や意見を持っているわけではない。おそらく彼女としては、せっかく3姉妹集まったのだから、仲良くしろとは言わないがケンカせずに父の残り時間を一緒に過ごしたかったのだと思う。東畑開人の著書に『居るのはつらいよ』という本があるが、クリスティーナはむしろ「居る」ことが大事なのだと訴えるキャラだ。彼女もまた饒舌ではないが、一瞬だけブチキレるポイントがあり、そこにクリスティーナの思想がよく表れていたように思う。
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いずれにせよこの映画は、3姉妹それぞれの「ケアの倫理」の対立を描き続ける映画なのである。ケアの倫理、つまりケア対象者と「どのように関わり続けるのか」が一致していない。ケイティは自分の意見を積極的に述べた上で同意を求めようとする。つまりケイティにとって、この対立は非常に居心地が悪い。しかしながら、ケイティのそのやり方はうまくいかないわけだ。なぜならば、意思決定の前に合意調達のコストをケイティは支払ってないからである。ケイティは自分のやっていることの正しさを信じるがゆえに、自分がいなかった時にレイチェルがどのようなケアをしていたのかを全く知らないのだ。
もっとも「ケアの倫理」的なのは、「居る」ことにこだわったクリスティーナだと言える。早急に答えを出そうとしたケイティはむしろ「正義の倫理」寄りかもしれない(だから必要な合意調達やコミュニケーションを避けた)。もっとも、レイチェルにはレイチェルの倫理があるということを、二人が知ることができるのかが鍵になると思っていた。そこで役割を果たすのが、レイチェルのボーイフレンドだ。
彼もまた3姉妹の父を知る存在であり、ケアを担ったレイチェルの姿を見てきた。ケイティやクリスティーナにとっては全くの他人であるため異物扱いされるが、彼にとっては急にやってきた2人の姉妹こそ異物に見えるのである。外からの訪問者という点ではミラベラとエンジェルの存在も、存在感が強くはないが重要だ。家族関係を、家族の間だけに「閉ざさない」役割を果たしている。そもそもケイティとクリスティーナだって、血縁ではあるけど外部からの訪問者には違いない。
「在宅で死を迎える」という時にたったひとつの冴えたやり方は存在しない。血縁者や医療従事者、あるいは福祉関係者も含めて関係者が集まり、対話や議論をし、状況に応じて模索するしかないのだ。そこで試されるのが「ケアの倫理」観の違いであり、重要なのは「違いを乗り越える」ことではない。違いを認め合うことでしかケアの継続ができないのだ、というのがこの映画のシンプルかつ明快なメッセージだったのだと思う。
そういえばこの映画の邦題は「喪う」だが、個人的には原題の"His Three Daughters"のほうが好きだ。なぜこの映画にHis、つまり「彼の」という代名詞が必要だったのかは、ラスト20分にようやく明らかになる。ここが最も映画的な仕掛けがある場所だ。物語的にはここがなくても成立するが、映画としてはこのクライマックスがなければ締まらない。そういうタイプの、怒涛のラストだった。



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