監督、脚本:園子温
主演:染谷将太、二階堂ふみ(*1)
原作:古屋実『ヒミズ』(2001年〜2002年、ヤンマガKC)
公式サイト:http://himizu.gaga.ne.jp/
見:シネクイント
「ヒミズ」という映画がすごい、というのを初めて知ったのはいつだったか忘れたが、確実に見たいなあと思ったのは年末のTBSラジオ文化系トークラジオLifeでの佐々木敦さんの発言を聞いたからだと思う。いろいろと佐々木さんに影響受けてるなあ、と思うがただでさえ園子温監督の最新作だしなんか海外で賞もとっちゃっているようなのでこれはぜひ見に行こう、と思い見てきた。(*2)
ちょうど〆切りが迫っていた卒論を郵便局にあずけたその足で、渋谷へ。
あ、このあとはネタバレをそこそこ仕込んでいるので見る予定のある人はご用心。
最初は絶望と後悔の物語なのかなあ、と思ってスクリーンを眺めていた。主人公の住田も、ヒロインの茶沢景子も、何もない郊外のような場所で、不幸な家庭に生まれ育ち、おおよそ希望と呼べるものを信じるよりも目の前の絶望をどうやって切り抜けていくかが精一杯な日々を生きている。
冒頭で教師ががんばれ住田、と繰り返しはげますシーンがあるのだが、これがいかに茶番であるかを批判的に映している。まあ学校というものはおおかた茶番としての倫理を教える場所であったりするから、戯画的ではあるがリアルにも思えた。
住田は「普通に生きていく」ことをただひたすらに願う。逆に言えば普通ではない生活のなかで、「普通」なるものを手に入れるのは他人とは違う形で上昇していかねばならないということだ。そして当然だが、上昇するには中学3年生の力はあまりにも乏しい。
その力の乏しさや、可能性の小ささゆえに住田はさらに苦しみを露呈していく。言葉には成らないものは暴力によって表出するしかない。文字通り、吐き出すように。
『輪るピングドラム』の言葉を借りれば住田は(そして茶沢も)「きっと何者にはなれない」側の人間なのだろう。ピングドラムも家族関係が直接マイナスの影響を与えるところから始まる物語だったし。
ただ、ピングドラムの場合小さくて弱いながらも連帯が描かれる。住田にとって連帯という発想はない。あくまでも自分がまず優先だ。住田にアディクトする少女として描かれる茶沢も、住田にとってはうっとうしい存在でしかない。近くに住み着いたホームレスたちも、場合によっては。
こういう風に見ると住田は望んで孤独を選んでいるようにも見えるが、孤独になりたいというよりはまず、いかに普通に生きるかを愚直に求めることがあって、その愚直さがこれもリアルに描かれる。何もできないわけではないが、はね返されていく。もっといえば、何も出来ないばかりかどこへも行けない。
父に続いて映画の中盤で母が失踪するのも示唆的だ。子どもはあまりにも無力だし、世渡りもうまくない。そんな経験も、つながりも持ち得ていないし、そもそもそれらが重要だということにも気づけないかもしれない。
基本的に話の筋はこれだけだ、と思ってる。うちのめされていく住田の絶望がどんどん深まっていく。茶沢にも無力感しか残らない。それでもひきこまれていくのは、このふたりが小さい体をふんだんに使った演技を展開しているからだろう。泥にまみれるという表現があるが、ふたりとも文字通り泥にまみれる演技が続いていく。
セリフとしての言葉よりも、体で演じる。演技とは身体性なのだ、ということを改めて感じさせる映画になっている。「愛のむきだし」よりもよほどその点は顕著にでていると思う。いや、セリフの語気も相当すごいんだけどね。それ以上にいい意味で奔放に身体を振り回す。この思い切りがなければこの映画の魅力はおそらく半分も伝わらない。
物語の核心部分でかつ重要なのは後半からラストに至るあたりだと思うんだが、ここでいくつかの変更があったらしい。といっても原作の古谷実による漫画は未読なのでちょっとよく分からないんだが(なんとなくは分かるがあくまで推察なので書き控える)いくつかの意味はあったのだろうと思ってみてた。
ひとつは明確に<震災後>を描いていること。冒頭から被災地のシーンが挿入されるとはさすがに思わなかったのだが、この映画のおどろおどろしい空気感は震災や原発の描写(ささやかなのだが)の影響が大きい。つまり、そこから始まるということで一本の線を描いている。原作ファンからしたら恣意的だったり過剰な意味づけに思えるのかもしれないな、とも感じつつ。
もうひとつは<震災後>という空気とも絡むけど、いまこのときに15歳の肖像をどのように描くか、という点だろう。「ヒミズ」という原作の持つパワーは、おそらくその普遍性にあると思う。大人と子どもの圧倒的な差だとか、そこからくる生きがたさだとか。こうしたものは時代も国境も飛び越えていく訴求力がある。
ただ、それでも<震災後>という線を引いた以上、あえて普遍的なものにしない工夫がなされたのがラストだったのではないか、と思えた。つまり、いまこの瞬間の日本において求められているものを、愚直ながらも描ききった、というところにある。
それ自体についての論評はここではしない。俺もまだちゃんと<震災後>の線引きとこの映画との関係性について、整理がついていなかったりするので。
それでも言えるのは、冒頭で書いたように佐々木敦さんの語りを聞いて、最後がすごいということは見る前から分かっていた。分かっていてもなお、ラスト10分は震えながら見ていた。周りにはすすり泣きをする女性たちも何人かいた。
この一点においては、つまりラスト10分に感じた震えにおいては、たとえ原作からの決定的な変更がなされていなくても感じたかもしれない。というか感じたのだと思う。結末に震えたのではなく、そのどうしようもなく愚直な15歳の生に、震わずにはいられなかったからだといまなら思える。
完全にネタバレだが、最後のほうで川に向かって入水しつつ、銃を放つシーンがある。最初に数発空に放ったあとに自分自身に向ける。なぜ、空に数発放ったのだろうか。
スクリーンを通してみるとそれは祝砲に思えた。朝日の白むなか、一歩ずつ川の深みに足を踏み入れていく。それはつまり死へ向かうことを意味しているようにも見えるが、やけに爽やかに見えるのだ。そこで放たれる数発の銃声は、祝砲にしか見えない。最後につかんだ、希望のようにも見えたしね。
そしてそこで終わるのか終わらないのか。続きはスクリーンでどうぞ。ネタバレしないと書きたいことが書けないのでいろいろバラしてしまっているが、それでもなお見る価値はある映画だと思う。余裕あればもっかいスクリーンで、生々しい15歳の身体を見たいと思わせられる、力に満ちた映画になっている。まだ見るのは『愛のむきだし』に次いで2作目なんだが、それでこそ園子温なのだろうと思う。(*3)
*1 ふたりともそれぞれ第68回ヴェネツィア国際映画祭で新人賞(マルチェロ・マストロヤンニ賞)を受賞。
*2 佐々木敦さんのヒミズ語りはここ(http://www.tbsradio.jp/life/201112252011/)のPart3から聞くことができる。
それと、もういくつか見に行きたいと思ったきっかけはあって、そのひとつは敬愛する元広告人の大倉真一郎さんの記事(http://d.hatena.ne.jp/shinmoe/20120116/1326669258)で、もひとつはチャーリーこと鈴木謙介さんの記事(http://blog.szk.cc/2012/01/20/himizu-the-movie/)。前者はシンプルに書いているが後者は原作からの重大な変更や後半の住田の決意とその後の行動についての素朴な疑問について書かれている。俺自身はこういうふうにはこの映画を見なかったけどチャーリーさんの指摘はもっともだと思うし、「変更」に対するこういう見立てが実は自然なのかもしれない、と感じた。ひとつの見立てとして。
*3 もちろん原作のパワーも込みで、だと思うのでいつかちゃんと読みたいなと思った。前回漫喫いったときは映画を先に見ようと思ってスルーしたので次回こそリベンジする。
主演:染谷将太、二階堂ふみ(*1)
原作:古屋実『ヒミズ』(2001年〜2002年、ヤンマガKC)
公式サイト:http://himizu.gaga.ne.jp/
見:シネクイント
「ヒミズ」という映画がすごい、というのを初めて知ったのはいつだったか忘れたが、確実に見たいなあと思ったのは年末のTBSラジオ文化系トークラジオLifeでの佐々木敦さんの発言を聞いたからだと思う。いろいろと佐々木さんに影響受けてるなあ、と思うがただでさえ園子温監督の最新作だしなんか海外で賞もとっちゃっているようなのでこれはぜひ見に行こう、と思い見てきた。(*2)
ちょうど〆切りが迫っていた卒論を郵便局にあずけたその足で、渋谷へ。
あ、このあとはネタバレをそこそこ仕込んでいるので見る予定のある人はご用心。
最初は絶望と後悔の物語なのかなあ、と思ってスクリーンを眺めていた。主人公の住田も、ヒロインの茶沢景子も、何もない郊外のような場所で、不幸な家庭に生まれ育ち、おおよそ希望と呼べるものを信じるよりも目の前の絶望をどうやって切り抜けていくかが精一杯な日々を生きている。
冒頭で教師ががんばれ住田、と繰り返しはげますシーンがあるのだが、これがいかに茶番であるかを批判的に映している。まあ学校というものはおおかた茶番としての倫理を教える場所であったりするから、戯画的ではあるがリアルにも思えた。
住田は「普通に生きていく」ことをただひたすらに願う。逆に言えば普通ではない生活のなかで、「普通」なるものを手に入れるのは他人とは違う形で上昇していかねばならないということだ。そして当然だが、上昇するには中学3年生の力はあまりにも乏しい。
その力の乏しさや、可能性の小ささゆえに住田はさらに苦しみを露呈していく。言葉には成らないものは暴力によって表出するしかない。文字通り、吐き出すように。
『輪るピングドラム』の言葉を借りれば住田は(そして茶沢も)「きっと何者にはなれない」側の人間なのだろう。ピングドラムも家族関係が直接マイナスの影響を与えるところから始まる物語だったし。
ただ、ピングドラムの場合小さくて弱いながらも連帯が描かれる。住田にとって連帯という発想はない。あくまでも自分がまず優先だ。住田にアディクトする少女として描かれる茶沢も、住田にとってはうっとうしい存在でしかない。近くに住み着いたホームレスたちも、場合によっては。
こういう風に見ると住田は望んで孤独を選んでいるようにも見えるが、孤独になりたいというよりはまず、いかに普通に生きるかを愚直に求めることがあって、その愚直さがこれもリアルに描かれる。何もできないわけではないが、はね返されていく。もっといえば、何も出来ないばかりかどこへも行けない。
父に続いて映画の中盤で母が失踪するのも示唆的だ。子どもはあまりにも無力だし、世渡りもうまくない。そんな経験も、つながりも持ち得ていないし、そもそもそれらが重要だということにも気づけないかもしれない。
基本的に話の筋はこれだけだ、と思ってる。うちのめされていく住田の絶望がどんどん深まっていく。茶沢にも無力感しか残らない。それでもひきこまれていくのは、このふたりが小さい体をふんだんに使った演技を展開しているからだろう。泥にまみれるという表現があるが、ふたりとも文字通り泥にまみれる演技が続いていく。
セリフとしての言葉よりも、体で演じる。演技とは身体性なのだ、ということを改めて感じさせる映画になっている。「愛のむきだし」よりもよほどその点は顕著にでていると思う。いや、セリフの語気も相当すごいんだけどね。それ以上にいい意味で奔放に身体を振り回す。この思い切りがなければこの映画の魅力はおそらく半分も伝わらない。
物語の核心部分でかつ重要なのは後半からラストに至るあたりだと思うんだが、ここでいくつかの変更があったらしい。といっても原作の古谷実による漫画は未読なのでちょっとよく分からないんだが(なんとなくは分かるがあくまで推察なので書き控える)いくつかの意味はあったのだろうと思ってみてた。
ひとつは明確に<震災後>を描いていること。冒頭から被災地のシーンが挿入されるとはさすがに思わなかったのだが、この映画のおどろおどろしい空気感は震災や原発の描写(ささやかなのだが)の影響が大きい。つまり、そこから始まるということで一本の線を描いている。原作ファンからしたら恣意的だったり過剰な意味づけに思えるのかもしれないな、とも感じつつ。
もうひとつは<震災後>という空気とも絡むけど、いまこのときに15歳の肖像をどのように描くか、という点だろう。「ヒミズ」という原作の持つパワーは、おそらくその普遍性にあると思う。大人と子どもの圧倒的な差だとか、そこからくる生きがたさだとか。こうしたものは時代も国境も飛び越えていく訴求力がある。
ただ、それでも<震災後>という線を引いた以上、あえて普遍的なものにしない工夫がなされたのがラストだったのではないか、と思えた。つまり、いまこの瞬間の日本において求められているものを、愚直ながらも描ききった、というところにある。
それ自体についての論評はここではしない。俺もまだちゃんと<震災後>の線引きとこの映画との関係性について、整理がついていなかったりするので。
それでも言えるのは、冒頭で書いたように佐々木敦さんの語りを聞いて、最後がすごいということは見る前から分かっていた。分かっていてもなお、ラスト10分は震えながら見ていた。周りにはすすり泣きをする女性たちも何人かいた。
この一点においては、つまりラスト10分に感じた震えにおいては、たとえ原作からの決定的な変更がなされていなくても感じたかもしれない。というか感じたのだと思う。結末に震えたのではなく、そのどうしようもなく愚直な15歳の生に、震わずにはいられなかったからだといまなら思える。
完全にネタバレだが、最後のほうで川に向かって入水しつつ、銃を放つシーンがある。最初に数発空に放ったあとに自分自身に向ける。なぜ、空に数発放ったのだろうか。
スクリーンを通してみるとそれは祝砲に思えた。朝日の白むなか、一歩ずつ川の深みに足を踏み入れていく。それはつまり死へ向かうことを意味しているようにも見えるが、やけに爽やかに見えるのだ。そこで放たれる数発の銃声は、祝砲にしか見えない。最後につかんだ、希望のようにも見えたしね。
そしてそこで終わるのか終わらないのか。続きはスクリーンでどうぞ。ネタバレしないと書きたいことが書けないのでいろいろバラしてしまっているが、それでもなお見る価値はある映画だと思う。余裕あればもっかいスクリーンで、生々しい15歳の身体を見たいと思わせられる、力に満ちた映画になっている。まだ見るのは『愛のむきだし』に次いで2作目なんだが、それでこそ園子温なのだろうと思う。(*3)
*1 ふたりともそれぞれ第68回ヴェネツィア国際映画祭で新人賞(マルチェロ・マストロヤンニ賞)を受賞。
*2 佐々木敦さんのヒミズ語りはここ(http://www.tbsradio.jp/life/201112252011/)のPart3から聞くことができる。
それと、もういくつか見に行きたいと思ったきっかけはあって、そのひとつは敬愛する元広告人の大倉真一郎さんの記事(http://d.hatena.ne.jp/shinmoe/20120116/1326669258)で、もひとつはチャーリーこと鈴木謙介さんの記事(http://blog.szk.cc/2012/01/20/himizu-the-movie/)。前者はシンプルに書いているが後者は原作からの重大な変更や後半の住田の決意とその後の行動についての素朴な疑問について書かれている。俺自身はこういうふうにはこの映画を見なかったけどチャーリーさんの指摘はもっともだと思うし、「変更」に対するこういう見立てが実は自然なのかもしれない、と感じた。ひとつの見立てとして。
*3 もちろん原作のパワーも込みで、だと思うのでいつかちゃんと読みたいなと思った。前回漫喫いったときは映画を先に見ようと思ってスルーしたので次回こそリベンジする。
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