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多分中川龍太郎の名前を最初に聞いたのがこの映画だったと思うが、見るのがこのタイミングになった。今をときめく一人である太賀がまだまだ粗削りノ若手だった時代に、まさに粗削りで不満ばかり抱えている若い青年を好演している。喪失と追悼と、旅といた題材は2018年の『四月は永い夢』の原型でもあるようだ。
亡くなった親友の足跡を探しに北陸に行く。その、元恋人だった理紗子と一緒に。ストーリーはあるようでないような感じで、終盤に音楽がかかり始めてからの映像はミュージックビデオを見ているようだった。音楽的で、詩的な映画と若者たちの日常が群像をいった組み合わせはとても良いものである。
とはいえ、前述したようにストーリーはもっとふわっとしている。大きく見た時には、東京で生きる若者の群像とも言えるし、若い人の生活や日常、それもわりと泥臭い感じのそれを描こうとしている。彼ら彼女らがどういう環境や状況の中で生きているのか、何を食べているのか、誰と普段会ってしゃべっているのか、どんな仕事をしているのか。劇映画というよりはドキュメンタリーでも見ているかのようだった。
そうした泥臭い日常の中に、人の死が急に挿入される。そして、「走れ、絶望に追いつかれない速さで」というセリフが登場する。実はこのセリフは後半にも登場して、ネタばらしも行われるが、なんにせよ急にエモを投入してくるのが中川龍太郎!!っていうところなんでしょうね。静かな展開に急にギアが入るのも、『四月は永い夢』の原型のようであった。
今回のブログのタイトルは47〜49分あたりの会話、大賀演じる村上漣と黒川芽以演じる理沙子との間で交わされるセリフをやや改変して拝借している。約4分間、北陸の宿に泊まった二人が、夜が深くなる中で交わす会話が、生と死の交差点にいる当事者性をじわっと発揮しているようで好きだった。分かりやすくはない。ぼそっとした静かな会話こそが、この映画の魅力だろう。
理沙子と別れた後にたどり着いた富山のクラブで会う斉木環奈との会話もそうで、はっきりとした中身のある会話がなされているわけではない。でもここで言っておかないと、話しておかないといけない。そうした感情が口から出ている様子が、とても美しい。それは終盤のミュージックビデオ的なエモーショナルな美しさとは違う良さであると思う。映画的には終盤の展開が「映える」だろうが、伝統的な日本映画としてはむしろ、なんでもない会話の風景にこそ宿るところにこの映画の美点があると思う。
つまり、ディテールの作家なのだと思う。分かりやすいストーリーを提示するのではなくて、あえて細かいところ、小さいところにこだわる。それらは観客にはっきりと受け取ってもらえないかもしれないが、それはそれで別に構わないという孤高さも感じる。映画のタイトルがまず詩的であるが、詩がそうであるように「味わうこと」がおそらく重要なのだ。じっくりと、息をのみながら。
◆関連エントリー
・夢が終わるまでの日々 ――『四月の永い夢』(2018年)
・居場所と自分探しを、ゆるやかに ――『わたしは光をにぎっている』(2019年)
・失われることへの反発と、二重の追体験を通した追憶 ――『やがて海に届く』(2022年)
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