Days

日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。



見:イオンシネマ高松東

 すでにいろんなところでいろんな人がこの映画の話題をしており、批評的な言説も多く見かけるのであえてこの映画について触れなくてもいいかなと思ったが、せっかくなので他の人があまりしていない(ように見える)話題を少し振ってみようかなと思う。むしろ似たような話をしている人がいたら教えてほしい、読みに行きます。


◆1.結婚に至らなかったカップルとして描かれる麦と絹

 上記の140秒の予告編を見てもわりとはっきりと分かるように、「人生における奇跡的な時間」を映画にしたのが本作だ。その奇跡的な時間は20代前半の学生時代に始まり、20代後半、アラサーと呼ばれる年齢に差し掛かるころに終わっていく。ある意味、この二人のような関係性は珍しくないだろう。いまの日本において、平均初婚年齢は男女ともに30歳前後で、結婚までの平均交際期間は2,3年である。20代前半のうちに結婚するカップルの多くは学生時代の交際を継続させたカップルだ。

 以上を踏まえると、もっと早い段階で結婚というアプローチを考えていれば、映画の麦と絹の関係性は変わったかもしれない。逆に言うと、その選択をとらなかった、あるいは考慮することすらなかった二人にとって「結婚するカップル」から乖離していくのが交際期間5年の後半部分だったのかもしれない。ゆえに、つまりいつか終わってしまうがゆえに、「奇跡的な5年間」だったと言えるのだろう。(もちろんここには壮大な皮肉が効いている)


◆2.COVID-19を経験しなかった麦と絹

 その上で、この映画は二人が別れた後の描写もわずかながら挿入している。二人の恋愛は2015年に始まり2019年に終わる(つまり2010年代と一緒に終わる)が、2020年として挿入されるシーンでは二人にそれぞれ新しい恋人がいて、一緒に過ごす様子が描かれている。現実世界とリンクしている映画なので、奇しくもCOVID-19が世界を覆う前に関係が終わり、COVID-19が世界を覆うころに新しい恋愛を始めているのは、麦と絹それぞれの人生にとっては幸福な出来事なのかもしれない。

 ただでさえ破綻した同棲生活の中にCOVID-19によるストレスがやってきたらその生活はかなり悲観的なものだろう。イベント会社に勤務している絹はCOVID-19下におけるイベント自粛の影響をもろに受けるだろうし、派遣社員という立場である絹は大きく影響を受けるだろう。雇用調整助成金を使って派遣元が派遣社員の雇用を継続してください、と厚生労働省が周知するようになったのは2020年6月のことだが、それ以前に絹が派遣元から解雇されているか、自宅待機を命じられて強いストレスがかかっている可能性は高い。

 逆にECによる物流関係の仕事をする麦は、以前より仕事がハードになっているはずだ。巣ごもり需要やテレワーク需要の恩恵を受ける物流業界は、以前からあった人手不足に拍車がかかっている。ただでさえ終電帰りも珍しくなかった麦の業務はさらに過酷になっていることだろう。

3.アベノミクス下における二人の労働スタイルの差異

 ネットを見ていると多くの人が労働の問題を指摘している。労働によって麦の精神と可処分時間がすり減っていき、漫画や小説に触れるエネルギーが削られ(パズドラしかできないんだよというセリフは象徴的である)、絹とのコミュニケーションもじわりじわりと減っていき、大きな断絶が二人の前に生まれていく。

 しかし、これはあくまで麦側の視点であり、絹側の視点ではまた違った労働の様子が描かれる。二人とも新卒カードを捨てて既卒で就職を果たしているが、これは2014年以降、第3次&第4次安倍政権下のアベノミクスによる景気回復や求人の回復による恩恵を受けた様子がうかがえる。仮にこれが2010年代前半、まだリーマンショックの余韻が大きく残る時代であるならば、新卒カードを捨てるという決断はかなり大きな決断だったはずだが、「人手不足」や「売り手市場」が叫ばれるようになった2010年代後半だからこそ麦と絹は新卒カードを捨てることに大きな抵抗がなかったのかもしれない。

 これはアト6で宇垣美里が指摘していたことだが、こうした状況にも関わらずなかなか就職できない麦は確かにかなり要領が悪い。しかし、絹はユーキャンの通信講座で簿記2級の資格を獲得し、あっさり就職を果たす。そして数年後、あっさり転職を果たすのだ。「好きなことを仕事にする」ための、クリエイティブ労働に。(これは麦が一度志したが、挫折したタイプの労働でもある)

 ちなみに二人が出会った2015年は女性活躍推進法が制定された年でもある。これは推測だが、地方出身で一人暮らしの麦よりも、都内在住で広告代理店勤務の両親のもとで暮らす絹の場合、政治との距離もおそらく違う。安倍政権と広告代理店最大手である電通との関係は度々指摘されてきたが、「女性活躍推進法」という、政治的に女性の雇用環境を改善したり、雇用機会を確保していこうという文脈の中に、広告代理店勤務の両親が何らかの形で関わっていてもおかしくはないだろう。そして絹は、食事中の会話の中などで仕事の話題を耳タコになるほど聞いていたはずだ。

 こうした二人の違いは、ECによる物流支援という一見新しい仕事に見えるが実は日本的雇用慣行を推進力にしたような会社に勤める麦と、イベントを主催したりプロデュースしたりする会社に派遣社員として勤務する、いわばクリエイティブ労働をする絹の価値観の差異になって描かれる。社会人になってからの二人は差異ばかりが際立っていくが、それは労働そのものの問題というより、労働のスタイルの差異から生まれる人生における価値観の差異の問題だと受け止めた。労働自体が問題なのではなく、そこからくる二次的なあれこれが問題なのだ。

 もっと言えば、その差異を二人がそれぞれ受け止めることができなかったことが、恋愛関係の破綻にもっともつながったのだと解釈している。二人の場合、「気が合う趣味が多い」というところから関係が始まっているため、コミュニケーションの断絶に対して初めから耐性がなかったのかもしれない。つまり、「自分たちは似ている」が「自分たちはあまり似ていない」になったときに、それでもいいよねと受け止めるか、あるいはコミュニケーションを繰り返して「いかに自分たちは似ていないのか」を受容していくプロセスがあれば、二人の関係そのものが違ったのかもしれない。

 しかし不幸なことに、可処分時間が十分にない麦にとっては、絹とのコミュニケーションすら拒むシーンが度々登場する。友人をきっかけに転職を果たすなど、もともとがコミュニカティブな絹と違い、不器用で要領の悪い麦は、仕事のこと以外を考える精神的な余裕もなかったのだろう。であるがゆえに、先ほど書いたようなもっとコミュニケーションしていれば、というのは永遠に反実仮想なのだろうと思う。だから二人が破綻するのがいつなのかを、見守るしかなかった。

 ちなみに絹が先に読んでいた滝口悠生の『茄子の輝き』を麦が読んでいれば結果は違ったかもしれない。けれどきっと麦は読んでいないだろう。ちなみにこんな小説です。




4.ポストモダニティな群像劇としての『花束』

 こうした『花束』の人間関係の描き方は、つまるところ徹底的にポストモダニティであるな、とも思うのだ。以前noteで書いたこの文章があるので少し引用してみたいが






 三浦玲一は上記の書籍の中で、ポストモダンとグローバル化の進展が、文化の中で、とりわけハリウッド映画におけるヒーローの描き方の中によく表れていると分析している。noteにも書いているが、映画の中では「主人公の恋愛の成就や家族の平穏といった、個人的な問題が前面に出される」のである。

 麦も、ある時から結婚とか家族といった夢を語るようになる。同期が結婚したから、といった身近な話題からその夢想は始まるが、自分の労働はそういった家族の形成という、個人的で親密圏的な空間の形成といったベクトルにまっすぐ向かうための手段として労働を受け入れている様が見える。逆に言うと、これは徹底的に家父長制モデルの反復でもある。つまり、古いものを古いままアップデートしようとしているがゆえに、絹とのコミュニケーションが破綻するのだ。社会人になってからも絹とのコミュニケーションを重ねていれば、こうした古いモデルを反復することもなかったかもしれない(しかしそのルートは存在しない)。

 他方で絹の場合、資格を手に入れて働くというこれもやや古いモデルからスタートするが、後半は「自己実現のための、やりたいことをするための労働」といった現代的な価値観へとアップデートしていく。もちろんここには「でも待遇はちょっと悪くなる」という現代的な資本主義が顕在化しているとも言えるが、いずれにしても古いモデルのままもがく麦よりは、時代に適応しながら自己実現していこうという絹の方が、希望的に見えるのは確かだ。(もちろん、時代に呑まれてしまう恐れも大きいし、2020年のCOVID-19はまさにその一つと言えるだろう)

 麦と絹がそれぞれ別れを告げるのは、かつて二人が懇意にしていた、それこそクリエイティブ労働を経験したであろう女性の結婚式の後だ。最後のファミレスで登場する若いカップルよりも、個人的にはこの「結婚という一つのゴールにたどり着いたクリエイティブ労働を経験した女性」の存在こそが、麦と絹の二人の恋愛の反実仮想として描かれたものだったのではないかと受け止めている。

 奇跡的な恋愛が、現実的な人生の一幕として幕を閉じるのか、あるいは奇跡は奇跡として、青春の記憶に葬っていくのか。この映画ではいろいろな人生の行き先が提示されているように見えて、しかし「ルート分岐なんて存在しない」のが人生だということも、残酷に突きつけている。



 それでも個人的にはこの映画はそう悲観的なものでもないと見ている。なぜなら二人はすでに次のステップへと進んでいるからだ。不器用な麦はまたどこかのタイミングでコミュニケーションの断絶を経験してしまうかもしれないが、コミュニカティブで器用な絹は、奇跡的な恋愛を反省にしてコミュニケーションの断絶を乗り越えられそうな気もする。いずれにせよ、二人の人生は20代前半からアラサーへと続き、やがて30代になっていく。人生が続いていく限り、恋愛はまたやり直すことができる。例え奇跡が終わっても、「人生はまだ続く」こと自体は希望的に受け止めていいのではないかと、すでに30代になっていまった自分としては思うのだ。
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