自分がゴジラ映画を見たのはいつ以来だろうとパンフレットをめくってみるとご丁寧に作品リストがあって、どうやら1998年の『GODZILLA』以来だということが分かった。もちろんこれはハリウッドで作られた(最初の)ゴジラ映画であるので厳密には除外すべきなのかもしれないが、それはさておき16年。いや、おそらく金曜ロードショーか何かで見ているからもう少し短いだろう。それにしても、もう一度リアルタイムにゴジラ映画を見るという体験を自分自身が選択するとは思わなかった、というのが率直な感想。
ゴジラ以外の膨大なキャラクターによる会議劇というのが事前に仕入れたイメージだった(ネタバレは気にしない派)なので、庵野がどうこうというよりも政治家、官僚、自衛隊、研究者、そしてその他諸々の関連諸機関といった面々たちの会議の様子が気になってしょうがない。政治学ではアクターやプレイヤーといった概念は非常に重要で、ある事象を分析するときに関係するアクターやプレイヤーを整理することで誰がステークホルダーなのか?を特定するのは非常に重要な要素だ。それだけで論文が書けたりする場合だって珍しくないだろう。なのでたとえば会議という場面で誰が発言権を持つのか、その権力はどこから生じるものなのか、などなど、着眼点はあまりにも多い。
もっともシンプルにまとめるならば、一番のステークホルダーはおそらくアメリカであり、ワシントンだろう。日米安保という逃れようのない呪縛的な同盟と日本に数多く存在する米軍基地のおかげで、対ゴジラという局面においてアメリカが参戦しないわけがない。もっともこれはタイミングというのが重要で、アメリカの存在が脅かされない程度においては参戦する必要がない。それはコストでしかないからだ。もはや日本、東京だけではとうてい太刀打ちできないのではないか、という局面において、なかば東京の意表をついた形で参戦してくる。もっと分かりやすく言えば石原さとみ演じるカヨコの登場もあまりにも唐突だし、いつのまにか巨災対の面々へすっかり溶け込んでしまえるフレンドリーさもなかなか末恐ろしいのだけれど、こういう唐突すぎる「強引さ」と、「友情」という傘をかざす同盟関係は現実の日米関係をかなりうまく批評的にとらえていると言えるだろう。
政治学、行政学のみならず国際関係論的にもリアリティを担保しているこの映画は、「ゴジラ」という仮想敵を有しているからこそ成立する。パンフレットでもゴジラという虚構以外をいかに現実的に表現するかという点にかなり腐心しており、陸、海、空それぞれの自衛隊との撮影交渉などはまさにこの国の安全保障の核心に迫っていると言えるだろう。ゴジラは現実化しないかもしれない。でもはたして、ゴジラがいないとしたらこの国は常に平和なのかというと、そうではない。庵野がリスペクトしたという1954年のファーストゴジラは、始まったばかりの戦後にも放射能という見えない恐怖が存在し続けているという未だ消えない不安だったに違いない。だからこそ、よりリアルに、限りなくリアルにというスタンスは、たとえゴジラがいないとしてもこの国が持たねばならないものを真摯に表現することに成功していると言えるだろう。
では何度も連呼される「想定外」の事態が起きたとき、この国は何ができるのだろうか。一つは、東京という中心的な場所を失っても耐えうるオプションを備えておくことだろう。千代田、港、中央区といった都心三区は二度目のゴジラ上陸によってことごとく破壊され、永田町から脱出をはかった総理をはじめとする閣僚たちもゴジラの前にあっけなく倒れてしまう。さらに市ヶ谷という自衛隊にとってもととも重要な場所も破壊されてしまう。それでも地下鉄の駅構内に逃げた矢口や尾頭たち巨災対の面々たちは、立川を新たな拠点とすることで活動を再開する。市ヶ谷が死んでも神奈川が生きていれば自衛隊の機能は死なない。そして筑波や理研が生きていれば、化学的なアプローチでゴジラに対抗することもできる。さらに実に360万人もの避難民を発生させて日本各地が混乱に陥る中、ある意味でこの映画は東京(都心)一極集中に対するアンチテーゼを投げかけているのかもしれない。それだけ、東京が死ぬということに対するダメージが大きすぎるのだ。
もう一つ、ではどのような戦略がゴジラに対して有効なのだろうか。ここでは巨災対のトップであり、立川に移動後は臨時ではあるが特命の担当大臣にも就任する矢口蘭藤と、内閣総理大臣補佐官であり立川からは官房長官代理をつとめる赤坂秀樹の思惑の差異が表れる。矢口はこの国を救うことと、被害を最小限にとどめることの両立を目指す。対して赤坂は、手段はどうあれ、ゴジラを倒してこの国を救えればいいと考える。矢口に対して明確な反対をすることはないのだが、矢口のやり方を冷ややかに観察している目と口調はなかなかに印象的だ。
矢口を演じる長谷川博己はかつて『鈴木先生』を演じたときの冷静さよりは、エモーショナルな存在になっており、頭はキレるが好感を持たれるタイプだろう。しかし政治家として誰かの上に立つ存在になると、赤坂や、あるいは友人の泉(与党の政調副会長)のほうが上手と言えるだろう。この差異はおそらく狡猾さ、つまり自分のとった戦略は政治的な意味での自身の将来を保証しうるかどうかというところまで見据えているかどうかだろ。立川に移動したあと、泉が気持ちを高ぶらせる矢口に対して「お前こそ落ち着けよ!」と声をかけるシーンは、実は冷静ではいられない矢口の脆さと、そうした彼の人間くささがあふれているいいシーンだった。ダカラこその矢口のやり方というものがこの映画の後半一時間に凝縮されていると言っていい。最終的には中ロをはじめとした国連安保理まで巻き込むことになるゴジラ対策の決着はいかに。
また映画のパンフレットの話になるが、まるでどこかのアスカさんのように異国から急に現れそして輪の中に押し入っていくカヨコの存在はかなり重要だ。ともすれば東京という狭い世界の話になってしまいな会議劇を、もっと広いグローバルな視点から捉え直す必要性を感じさせる。東京対ゴジラであってはいけないし、世界対ゴジラであってはいけない。日米対ゴジラというラインを貫徹させなければ、ゴジラを倒せない。これはもうどうしようもないくらいに日米安保の呪いとしか言いようがないが、対ゴジラを乗り越えるためには福音と言ってもいい。少なくとも赤坂と矢口のどちらの立場に立ったとしても有効であり、強大なパワーであることは間違いないだろう。さっきの筑波や理研の例ではないが、使えるリソースは使ってこそだし、もちろんそのための狡猾さは必要だ。
カヨコ演じる石原さとみがパンフレットで語っている言葉が非常にいい。ディティールにこだわればいくらでもこだわるところができるし、後半はとりわけ大味になるシナリオも捨てがたい。けれども、最後に石原さとみが語っている言葉こそ、現代に生きるわたしたちにできる一つの希望なのではないだろうか。最後に希望は必要だと、誰かが昔言ってた気がする。この国が民主主義の形式をとっている以上、わたしたちにこそできることはある。
石原さとみ:この映画をきっかけに自分が生きる未来の為にもっと深く学んでいこうと決意しました。この映画は、皆さんの経験や知識で捉え方や感想が変わる作品だと思います。どこに引っかかり、誰のひと言に怒りや悲しみを覚え、なぜその感情になったのか、そしてゴジラはいったい何なのか。是非、観終えた後にそれぞれの感想を言い合う時間を持っていただけたら嬉しいです。
関連作品
最後に希望がどうだという話と、今回はあえてあまり踏み込んでないけど3.11をいくらか意識した映画(『シン・ゴジラ』の場合最後の避難所と思われる体育館のシーンはかなり重要だろう)として園子温監督の『希望の国』を思い出した。これは希望という言葉とは残酷な展開も含んでいるが、戦後はまだ続いているように3.11という災後もまた続いている現代の日本にとっては重要な作品の一つだろう。
もうひとつ、「想定外」の事態と「東京の限界」というイメージから思い出したのは福井晴敏原作、阪本順治監督の『亡国のイージス』でした。小説が99年、映画が2005年なのでどちらももう10年以上前になるわけだけど、いま見返すとまた違ったものが見えるかもしれない。
コメント