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山岳ドキュメンタリーを見るのは2017年に見た『MERU』以来だったが、監督は同じエリザベス・チャイ・ヴァサルヘリィが務めており、『MERU』では出演者の一人だった山岳カメラマンのジミー・チンも今回監督を務めている。プライベートでは夫婦でもあるヴァサルヘリィとジミー・チンはこの後も何度かドキュメンタリーの撮影でコンビを組んでいるようで、機会があればほかの作品も見てみたいと感じた。
『MERU』では登山者にとって攻略不可能ないただきとして(いわばラスボスのように)君臨する様が最後まで印象的だったが、今回の『フリーソロ』の舞台はヨセミテ国立公園の崖であり、『MERU』ほど神聖化されているわけではない。そのため今回はアレックス・オノルドの個人史のような構成になっている。彼がなぜフリーソロ、つまり安全装置(ヘルメットですら!)をつけずに崖に挑むのか、そのために何を犠牲にしているのか、などを過度に物語化することなく淡々と追っていく。
崖での撮影が困難を極めるせいか、あるいはアレックスという一人の人間に焦点を当てているせいか、プライベートな部分の撮影パートも多い。ある時は学校で講義をする。ある時は仕事で知り合って交際を始めた妻との語り合いがなされる。妻は夫であるアレックスに死んでほしくないと強く思っているが、アレックスからすると恋路はクライミングの障壁になる。生死のはざまで生きる男(アレックス)にとって、安住の地である家庭、あるいは妻といった存在は崖とは対照的な存在であるがゆえに、だ。
愛し合っているのは間違いないのだろう。それでも、子どもがいたら夫をもっと(家庭という安全な場所に)つなぎとめられるかもしれないと願う妻と、妻への愛を語りながら崖に挑み続けることを辞めない夫の関係性こそが、綱渡りのようにも見えてくる。映画の中盤では20世紀後半から最近にかけて事故により亡くなったクライマーが紹介されるシーンがあるが、彼らにも愛する家族はきっといたのだろう。それはつまり残された側の人たちがいる、ということでもある。
アレックスの語りとアレックスの周囲の人々を追い続け、最後の20分はただひたすらヨセミテの崖に挑み続けるアレックスを映す。4時間近い格闘の成果が20分弱の短い時間におさまっているものの、その迫力と緊迫感はとてつもないものであった。それはこれまで映画が映してきたアレックスの孤高の世界や妻の愛情を知っているからこその緊迫感だったのだと思う。
彼が2023年のいまも死んでいないことは知っている。それでも、死が間際にあるという事実を映像は生々しく伝えてくれる。アレックスの妻の流す涙は、本当に尊い涙だということを、最後に視聴者は改めて実感させられる映画だ。そばにいる人が自分のことを強く愛してくれるからこそ、生きて帰ることのすばらしさをまたアレックスは感じているに違いない。
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