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日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。



見:ホール・ソレイユ

 『悪は存在しない』というタイトルでこういう映画を作るのがいかにも濱口竜介だなあ、と思いながら見ていた。嬉しかったのは『ハッピーアワー』で主人公格のキャラを演じていた菊池葉月を再見できたことだ。彼女ならああいうセリフ回しをするのだろうと思っていたが、いい意味で予想を裏切らないセリフ回しが見られて楽しかった。また、主人公格ではないが、同僚看護師を好演していた渋谷采郁も東京の芸能事務所勤務というまた前回とは異なる役で存在感を出している。

 ストーリーについてはあとで触れるとして、舞台装置がまず良くできた映画だった。こういう作家性を持つ監督だというイメージはなかったが、3.11のあとは東北を舞台にしたドキュメンタリーをいくつか撮影しているし、『ドライブ・マイ・カー』では北海道の雪原が重要な舞台として機能している。ならば今回のように、雪が積もっている諏訪の山中を舞台に選んだのは、そう意外性はないのかもしれない。

 その上で、都会/地方、という構図には簡単に持ち込まないのもこの映画の特徴だろう。新型コロナの影響で(おそらく)小規模事業者に向けて政府が拠出した補助金を「アテ」にして本業ではないにも関わらず、能力の疑わしいコンサルタントと組んで山中にグランピング施設を作ろうとする東京の芸能事務所と、山の便利屋として日々地域住民を支える主人公・巧たちとを「あえて分かりやすく対立させる」のがこの映画の最初の狙いだ。

 都会からやってきた資本と地元の対立や、自然への悪影響といったテーマはどちらかというと古くからあるもので、ゴルフ場建設による自然破壊と汚職を唐沢寿明演じる政治家秘書が告発する『愛という名のもとに』は、もう30年以上前のドラマである。このあえて古い構図を、「新型コロナによって生まれた補助金」という新しい材料と組み合わせることであえて古いテーマを現代化させている。

 とはいえ、それも前述したように「あえて」作り出した対立の構図であって、本筋ではない。この映画の本筋は都会/地方というような小さなものではなくて、自然/人工といったもっと大きなスケールのものだ。巧が語るように、いま自分たちが住む諏訪の土地でさえ、最初からいた人だけで作りあげたものではなく、世代を重ねて人工的に作り上げた産物である。

 だから当然、長くこの土地にある自然は自分たちよりずっと命が長い。序盤に花と巧が歩きながら木々の名前を確認したり、小鹿の死骸を確認するシーンが印象的で、どれだけ自分はこの土地に、自然に詳しいと思っていても、それは他の人間と比べた時に詳しいというだけだ。だからこそ、巧にとっても予想できないことは当然起きるし、それまでずっと落ち着き放っていた巧が思った以上に動揺するのも印象的だ。

 確かにこういう風に見てくると「悪」は存在しない。そこにあるのは大地と、人工物だけだ。芸能事務所のグランピング施設がどのようになるのかは誰も分からない。あえてそれを序盤に提示しながら次第に本筋から「外す」テクニックは、誰かの書いた筋書き自体を疑うことの面白さや妙味を描いた『偶然と想像』の1話や2話を思い出しても良い。あるいは、黛と高橋の車内での会話をあえて長回しで撮って見せたのも、長く続く会話が当初予定していた筋を「外れる」瞬間の面白さや人間くささをカメラに納めたかったからなのだと思う。

 他方で、自ら悪になろうとする人は出てこない映画なのに、どこかに小さい邪悪さが覗く。そういう風に見える映画でもあるなと思った。巧が何者かは最後まで分からないし、一時失踪した花が何をしていたのかも分からない。黛と高橋の会話はあくまで表面上の会話でしかないから、本音は分からない。よく考えれば考えるほど、最初から最後まで「分からないこと」を撮り続けた映画だったと言える。その上で現実ってそういうものなのだろう、つまり私たちの日常だって「分からないこと」に囲まれていて、そういう風に人は日々を過ごしているだけなのかもしれないし、と。


◆関連エントリー
ナラティブによる揺さぶりと、二人の巡礼 ――『ドライブ・マイ・カー』(2021年)
寝ても覚めても過去を忘れられない ――『寝ても覚めても』(2018年)
人生の困難さと、その価値 ――『ハッピーアワー』(2015年)
言葉、境界、すれ違い ――『親密さ』(2012年)
 
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