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日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。



見:イオンシネマ綾川

 ユーフォの劇場版第二作を見た。率直な感想は、黄前久美子はどれほどの活躍をすれば気がすむのだろうというくらい、彼女がいないと成り立たない物語を延々と見せつけられている思いがした。一作目のクライマックスは以前ブログにも書いたように、高坂麗奈と香織の再オーディションの場面だと思っている。あのシーンのためだけにというか、あのシーンから逆算されて物語が再構築されたのだろうと強く思ったからだ。ここでは実は、久美子の果たす役割はそう多くない。彼女は二人の行く末を、たぶんかなり近い場所から(麗奈に限りなく寄り添いつつも香織を否定するわけではない立場として)見守る。ある意味、それだけだ。

 本作はアニメ二期を焼き直すと思われていたが、結果的に後半部分だけをとりあげた作品になっていた。パンフレットを読んでいると、みぞれや希美のあれこれがそもそもなかった世界が描かれているという語りもあってなるほどなあと思った。そしてもうひとつ、麗奈の滝先生への片想いや、滝先生の過去の話などもきれいなくらい一切触れられていない。今回もまたドラスティックなくらい、物語の密度を濃く圧縮した形になっている。たとえばOPにいきなり関西大会のエピソードを持ってくるあたりもなかなかな判断だと思う。

 OPが関西大会ならば、本編で語られるのは関西大会後から全国大会までの、田中あすかをめぐる大いなる一悶着と、その後の卒業までを描いたいくつかのエピソードといったところ。一作目は麗奈の持つ特別さを久美子を含む他の部員たちが同じ場所で確認するための物語だったと思う。では今回は田中あすかの特別さを、ということには簡単にはならない。あすかの場合、彼女が特別だということはもうすでにみんなが知っていることだ。改めてみんなで確認し合う必要はない。そうではなくて、彼女の特別さという「仮面」をはがしていくための、そしてそれを導くのが黄前久美子だという、そういう物語になっている。だからこそ、麗奈の片想いや希美とみぞれの関係はすべて蛇足なものとしてなかったことにされているのだ。

 田中あすかの全国大会出場が危ぶまれる(主に家庭の事情で)というのが今回の筋立てだが、ここで重要なのはなにもあすかと母親の間の問題を解決することではない。今回に関しては、いや、今回もというべきかもしれないが、黄前久美子の役割は探偵ではなくカウンセラーだ。同じ楽器を演奏し、もっとも近い場所で田中あすかを見ていながら、おそらく彼女に物怖じせずに物を言える数少ない下級生として、田中あすかの心理に少しずつ迫っていく。

 あすか不在によりぎこちない演奏を見せた部員たちに対し滝先生はもちろん激怒する。そのすぐあとに小笠原晴香が言う、あすかは特別なんかじゃない(わたしたちが彼女を特別にしていた)という言葉が田中あすかの特別さをはがす一助ともなる。久美子にしてみれば、そうだろうという自覚はあっただろうが、晴香の言葉は久美子に何らかの納得感を与えたに違いない。もちろんそれは同時に、あすかの呪いを少しずつ解いていくきっかけにもなる。


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 ここからは久美子とあすかの二人の世界だ。子どものころから母子家庭だからかもしれないし、あるいは受験と部活を天秤にかけられた状態だからかもしれない。あすかは久美子の前ではとにかく年上の先輩として対応する。まあ妥当かもしれないと思われる正論を久美子にぶつけていく。合理的で論理的な彼女を論破するのは容易ではない。

 だからこそ、映画後半の一つのクライマックスの場面で放たれるだったらなんだって言うんですか!という言葉の重みがある。すべての前提を否定する久美子のエモーショナルな言葉は強く響く。映画の副題にもなっていること、そしてパンフレットで製作陣が語っていたようにこの作品のテーマは「届け」という言葉に集約されている。妥当かどうかではない、わたし(久美子)があなた(あすか)に対して届けたい素直な気持ちを届けること。それがもっとも大事なことなのだということが分かっているから、久美子はあすかの威圧感にも負けない。

 そしてそれをアシストしたのは、晴香や香織といったあすかと同じ3年生たちである。二人は久美子があすかの家を訪問する際にさりげない気配りをしているように、あすかへの思いと久美子に対する信頼の両方があることがよくわかるし、それはとてもあたたかい。テレビシリーズで晴香はあすかについてやや達観めいた言葉も教室で発していたが、それはおそらくあすかの能力と立ち位置を認めているからだろう。だからこそ、「彼女はわたしとは違う」という明確な現実に対し、フラットに立ち回ることができる。滝先生に怒鳴られたあとに、部員に向かって短い演説を弄するところでも、「あすかとは違う私」が部長をやっているからこそできることがあるのだということを、彼女は信じたいのだなと思った。

 テレビシリーズでもこの二人の関係性を象徴する意味で印象的だったのはえきビルコンサートの回だろう。「私を支えて」の言葉は、相手の能力を認め、かつ信頼しているから出てくる言葉だ。ネガティブを自称する彼女にとって、「宝島」を演奏するシーンでのソロパートは容易なものではないだろう。

 この一連のシーンで劇場版がうまいな、と思ったのは晴香のソロパートが終わればそのまま画面がフェードアウトしていくテレビシリーズに対して、立ち上がってのソロパートを終えてから席に戻るまで、そしてそのあとあすかと短いやりとりを交わすまでの流れも新作カットとして追加していることだ。この追加の意味はまさしく、先ほども触れたあすかとの関係性を再確認させるような(二人にとってだけではなく、観客に対しても)一連のシーンだったのではと思う。(ちなみにテレビシリーズでは立華高校に進学した久美子の中学時代の同級生あずさが登場するが、劇場版に彼女は出てこない)

 あすかは特別ではないかもしれない。彼女を特別なものにしてしまうのかそうでないのかは第三者が決めればよいのだ。久美子にとっては特別な先輩である一方、特別さを檻にするあすかへの嫌悪は久美子らしい。晴香にとってはある意味特別で、でもあくまで同じ学年の、同じ部活の部員だという視点も失わない。あすかは自分は他人とは違う存在になりたかったのだろうし、音楽や勉強の能力といった意味ではそれを目指すのは悪くない。完全な個人ワークの世界で上の世界を目指すのは当然だ。ただ、「吹奏楽部の一員」としての彼女は、特別な存在たりうることが周囲と自分を引き離してしまったことに、もう少し早く気づいてもよかったのかもしれない。

 もっとも、久美子があの場面で彼女に気づかせたのは、タイミングとしては悪くないものだ。久美子がアクションを起こさなくても結果は変わらなかったかもしれない。しかしそれはあくまで客観性の問題であって、あすかの心の内で何かが変わっていく可能性を、久美子は期待していたのだろう。それは果たして、かなったか。

 いずれにせよ、黄前久美子の成長と、テレビシリーズで常にあすかや香織の存在感の前に弱くなっていた小笠原晴香の活躍が見られたという意味では、一作目とはまた異なる充実感のある劇場版だった。成長という意味では久美子の姉である麻美子の決断と姉妹の関係性についてもう少し触れてよかったかもしれないが、このへんはねりまさんが存分に語っているのでそちらをどうぞ、という気分です。


◆関連エントリー
高坂麗奈へとたどりつくまでの奇跡的な軌跡 ――『劇場版 響け!ユーフォニアム 〜北宇治高校吹奏楽部へようこそ〜』(2016年)




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