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日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。



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 タイトル通り、会議映画である。1942年1月20日、ベルリンで行われた「ヴァンゼー会議」をフィクション化したものであるため、約2時間あるもののたった一日で映画は終わる。参加者と関係者が暗い湖畔の館に到着して、その館を去るまでの詳細を映像化するのがこの映画のプロジェクトである。また、「ヒトラーのための」とあるがヒトラー自身は参加していない。もっとも有名な参加者はアドルフ・アイヒマン、あるいはラインハルト・ハイドリヒだろうか。

 この映画、というかこの会議は「ヒトラーのための」が非常に重要で、総統閣下が存在しないことから「ヒトラーのため」とは何なのか? について細やかな議論が行われる。議題は「ユダヤ人問題の最終的解決」であるが、イギリスなどの敵国を含めると約1100万人のユダヤ人がヨーロッパ全土にいると言う。その範囲まで本当に含めようとしているのが(その後の歴史を知るものとしては)恐ろしいしあさましいと思うものの、ここにはいない人(ヒトラー)の意向を忖度するために、大仰な議論も展開されてゆくのだろう。

 参加者は全員ナチスの幹部であるが、現役の軍人である制服組と、官僚である背広組との対立が次第に目立ち始める。ざっくりと区別すると実務の遂行を中心に考える制服組と、法律的な正当性や妥当性、その効力の範囲を具体的に検討しようとする背広組とでも言えばよいのだろうが、この対立を見ていると次第に「ヒトラーのための」から乖離してゆくのではないか? と思わされる。誰かが総統という言葉を出すことで一時的に議論が巻き戻る場面が何度かあり、会議というものの難しさ、つまり何のための会議なのか? を確認する作業が必要になる。

 一日をかけた会議の中で数回の中座があるものの、中座の間も少数による立ち話が続けられてゆく。そしてユダヤ人の定義、範囲、法律効果などの議論のあとに残されるのは具体的な方法についてだが、ラスト20分ほどの展開が見ものだろう。当時すでに前線兵士が精神的に病み、病院に多数送られている事実をある参加者が共有しつつ、背広組の一人が兵士の精神的健康を議題に上げる。それを突っぱねようとする制服組も散見されるが、だったら効率的で直接的ではないやり方で虐殺しましょうという形で議論が展開してゆくのである。

 歴史を知っている人間としては、遠くない段階でアウシュヴィッツのガス室の議論になるのだろうとは思っていた。だが、このような形でアウシュヴィッツが正当化されてしまうのか、という小さな衝撃は拭えない。また、この具体的な方法の議論においてはもはや「ヒトラーのため」という視点は重要ではなくなる。誰かが実行しなければならない、実務的問題だからである。

 つまりこの映画は、「ヒトラーのため」という名目で始まった会議であったはずが、結局のところ実務的な現実性に焦点が移るまでのプロセスを描いているのだと感じた。高校世界史以上の詳しい史実は知らないのであくまで映画の感想としてではあるものの、実務の問題とその正当化が議論の終着点であるならば、この会議に参加していたのは全員「アイヒマン的な精神」を共有していたのではないかと思う。ハンナ・アーレントが批判した、有名なあの精神である。

 会議が終わるとこの映画もあまりにもあっけなく終わってしまう。のちに訪れる数百万のユダヤ人の死が、たった一日の会議によってもたらされてしまう。その残虐性や悲劇的な部分と、同時に官僚的で形式的な男たちの、どうしようもない精神性のことを考えさせられる。そういう二面性を持った会議映画だと思いながらエンドロールをみつめていたらAmazonが『関心領域』の再生を始めたので、そちらはまたそのうち、ということでなにとぞ。

関心領域
ザンドラ・ヒュラー
2025-01-08


関心領域
マーティン エイミス
早川書房
2024-05-22

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