Days

日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。

 

見:ホール・ソレイユ

 3時間近くのボリュームがある映画を夜勤明けに見に行くことに対していくらかの躊躇はあったものの、高松で見られるタイミングとしてはもうここしかないというタイミングだったので短い仮眠を挟んでからソレイユで見て来た。

 この前見た『aftersun』と似ていて、残っている映像を通して記憶をめぐる映画であり、かつ映画館で見ることに対して特別な思い入れを持つ映画だなと感じた。『aftersun』がまだ幼き日々を大人になっった主人公が振り返る映画だとすれば、本作は盛りの時期の映像を、もうすっかり老いてしまったキャラクターたちが振り返る映画とも言える。監督のエリセにとっても本作が約30年ぶりの劇映画とのことだが、監督の生きてきた時間の幅がすっかりそのまま映画にも反映されているような、そんな気概をも持つ一本に仕上がっていたと思う。 

 老いることに対して過度に悲観的にならず、かといってひたすらに肯定的に書くこともしない映画というのも貴重なのではないか。主人公のミゲル・ガライは元映画監督で、20年以上前に『別れのまなざし』という映画を撮っていたが主演の失踪という事件の結果、撮影途中で終わりお蔵入りになっていた。時は流れて2012年、『未解決事件』というタイトルのテレビ番組の取材を受け、またその番組の女性ディレクターの依頼もあり、失踪した俳優フリオ・アレナスの足取りを追うことになる。失踪後も遺体は発見されなかったため、どこかで生きてるのではないかという予感を持ちながら。

 というわけで、本作の前半部分はわりと典型的な人探しミステリーである。テレビ局からの依頼という形で人探しを始めることになったミゲルは、言わばこの映画における探偵役である。とはいえ特別な「捜査」を行うわけではない。フリオの娘をマドリードまで訪ねたり、ある時は元同僚で技師のマックスの元を訪ねたり。娘のアンもすでに中年だし、マックスも好好爺といった風情の老人である。若い人が全く出てこないわけではないが、この映画にはとにかく中高年のキャラクターが目立っているのは特徴的だろう。

 しかしながら前半の人探しミステリーはあくまで布石。後半、特に美しいラストショットに繋げるための長い伏線とも言える。後半だけでもこの映画は十分に成立しているのではないかと思うほど別のものを見せつけられるが、長い前半があってようやく、22年という時間を追体験できるようにも思える。長い間待っていてついにたどりついたフリオ・アレナスとはどういう男なのか? どこで何をして生きているのか? ミゲルの心情と観客の心情を一致させるために、長い前半が必要だったのだろう。

 そもそも映画という表現、映画館というメディアはそもそも「失われた芸術」になっているのではないのか? というのもエリセがこの映画にこめたメッセージだろう。ミゲルもマックスもいまは映画の仕事をしていない。フリオは当然失踪して以降映画の仕事をしていない。映画館もいまはデジタル化され、オールドタイプの映画館や映写に使う道具は必要とされていない。この映画はしかし、そうした失われた芸術を知る老人たちがいないと成立しない映画でもある、という点では逆説的でもある。

 ミゲルが慣れない手つきでスマートフォンを操作するシーンが繰り返し映される映画でもあるが、小さな画面で短い時間の動画を多く見ることが当たり前の時代において、映画館で3時間の映画を見る観客の存在も失われつつあると言えるかもしれない。記憶もまたそうで、老いることは失うこととほぼ同義であると言って良い。であるとすれば、失うことは何か? 老いることとは何か? を問い直すことは失われゆく時代に響くものではないのか? 

 一度失ってしまったものを取り戻すのは難しい。それが記憶であるならば、なおのこと難しい。それでも、写真という物理メディアは記憶を失っても生き続ける。映画もそうである。フィルムという物理の形で生き続けることができる。紙の本もそうだ。人間は老いから逃れられないが、物理のメディアは残り続ける。メディアの多くがデータ化され、物理や固体ではないものが支配的なものになっている現代、そうした残り続けるメディアの価値を改めて思い出させてくれる。

 物理メディアには記録が、そして人々の記憶が焼き付いて残っている。あるいは記録の中に、人々の記憶が息づいているとも言えるだろう。そうした様々な思いも喚起させるラストショットまでのシークエンスは、刮目した方が良い。
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