見:ソレイユ・2
予告編を見た時にいくらか想像はしていたが、残酷な映画だなと素朴に感じた。でもそれ以上に、その残酷さの余韻を丁寧に観察し続ける映画でもあった。つまり、「その後」を画面に映し続けることに、何らかの希望的なものを見出すことはできるのかもしれない。そうしないと、まともに生きていくことができなくなってしまうのでは? とも感じさせる映画だった。
ストーリー自体は非常にシンプルな構成になっている。親密な関係を築いてきた少年たち(レオ、レミ)が中学に上がり、クラスの女子から「付き合ってんの?」と茶化されたことから、その関係に亀裂が入ってゆく。そしてそのあとに突然、別れがやってくる。その別れを受け止めきれないもう一人の少年レオのことを、ただただカメラは追いかけてゆく。とても近いところ(CLOSE)で、追いかけてゆくのだ。
だからこの映画のタイトルのCLOSEは少年同士の距離のことを指すのはもちろんのこと、カメラとレオとの距離感も指しているように感じた。レオはどこまでが演技で、どこまでが演技でないのかが分からないくらい、感情がぐちゃぐちゃになってしまった少年であり続ける。ストレートに自分の感情を周囲にぶつけるし、他方でやり場のない感情に苦しんだりもする。ああ、そうだよな、突然の別れって言うのは大人でも容易に受け入れられるものでもないが、ましてや中学生には荷が重すぎるよな、といったことを観客にメッセージとして届けている。言葉ではなく、表情や行動一つ一つで。
繰り返すが、CLOSEな距離でレオを映し続けるカメラは、やはり残酷なまでにレオの表情を映し撮ってゆく。そのため、まるで演技ではないかのように見えるこの映画は、レオという一人の少年のドキュメンタリー映画にも見えるのだ。親友との別れを経験した少年のその後を観察するドキュメンタリーのように(でももちろん、ドキュメンタリーではなく劇映画だから一種のフェイクドキュメンタリーとも言えるかもしれない)。
大人たちがレオを救えるかというと、そう単純にはいかない。ぽっかり空いたものを埋め合わせるのは容易ではないからだ。ある時は兄と一緒のベッドに入ったり、ある時はレミの母親に急に会いに行ったりと、行き場のない感情をなんとか落ち着かせるための行動をレオはとるのだが、それでも埋め合わせることは不可能だ。そうした不可能性を経験することとそのリアリティを、この映画はレオに体感させてゆく。
ただ観客の視点からすると、レオ自身が最後まで後ろ向きにはならず、やり場のない感情や埋め合わせられない喪失感をぶつけながら生きていく様は、むしろ美しくも見えた。何よりそれが等身大で、飾りようのない素の人間性を体現しているように見えたからだ。レオを観察するカメラを通して観客もレオの気持ちを理解しようとつとめるはずだが、レオを追いかければ追いかけるほど、彼の抱えている苦悩を理解することはできないし、他人には分かりようがないと思えてしまう。近くに感じるからこそなお、レオの気持ちとどのように向き合えばよいのか分からないという感情を自覚させられるのだ。
でもそれは、他者の感情は容易に理解できない、できるわけがない、という前向きな諦めを与えてくれるようにも思う。つまり、必ずしも他者を理解することが重要なのではないということ。理解できないとしても、できることはあるということ。抱きしめたり、ただそばにいたり、励ましたり。残酷な現実が覆う中でも周囲の人間ができることはきっとあるのだと感じさせるのは、最初に書いたように残酷さが残した希望的観測だと感じた。
今年はここ数年の中では積極的に映画館に足を運んでいる方だと思うが、今年見た中ではいまのところこの映画をベストに選びたい。それくらい、このハードな筋書きを魅力的に見せるだけのものが、この映画には豊富に詰まっている。
※追記:「自分がかつて少年だったころと、その後の変化について」(11:10, 2023/9/21)
一つだけ付け加えたいことがあるので少しだけ。
この映画をいま大人である立場として見ていて感じたのは、映画の中のレオを通して自分の中にある「かつて少年だったころ」の記憶や感情を揺さぶられたことだ。少年だったころの自分もレオのように、行き場のない感情や埋め合わせられないやるせなさを周囲にぶちまけていたように思う。でもやがて成長する段階で、いつしかそうした感情の発露を自制するようになる。「自制したほうがいい」とすら思うようになる。なぜならば、「理性的で落ち着いている人間」として見られたいという欲望が自分の中に芽生えてきたからだ。
しかしながらこうした欲望は、ストレスや葛藤を自分の中にため込んでしまうという副作用も生む。それが一番最悪な形で露見したのが2012年〜13年ごろだったと思う。あの時の自分はもう少年ではないから、レオのようにふるまえたとはとても思えない。それでも、(残酷さを経験した事実は胸にとどめた上で)少しだけ羨ましいなと思いながら見ていたのは、自分もかつて少年だったからなのだろうなと思った。
かつて少年であり、いまは少年ではない、という事実。他方で、大人は感情をぶちまけてはいけないのか? という疑問に明確な答えはおそらくない。だからこそ少しだけ、ほんの少しだけ羨ましいなと思った気持ちがあったことを、ここに追記という形で短く記録しておきたい。
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