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キャロルを演じたケイト・ブランシェットも、テレーズを演じたルーニー・マーラも非常に美しかった。そしてブランシェットはキャロルの怒りや悲しさといった感情を豊かに表現して見せ、同時にテレーズに対する愛情や欲情をこれでもかというほど積極的に表現して見せていた。これは原作でもそうだったと思うが、まだ若者であるテレーズに対し、年の離れた貴婦人であるキャロルはその品位を体現することが求められるが、ブランシェットはあまりにも適任だったろうなと思う。彼女でなければ、演じきれない品位と、妖艶さが同時にあったからだ。
もっとも、原作読者からするといささか物足りないことも多い。キャロルとテレーズの関係性に焦点を当てながら同時にキャロルの家族関係の不和にも焦点を向けなければならない。これがなければ、キャロルがテレーズに向かう理由が説明できないからだ。だからその分、テレーズとはどういう女の子なのか、何を目指してデパートで店員のバイトをしている女の子だったのかという点が、どうしても十分に説明されないままになっていた。小説ではテレーズの夢や目標、葛藤や人間関係も詳細に書かれているが尺の都合上映画ではその点は必要最低限に抑えられている。
だからというわけではないが、他の誰にも邪魔されない、キャロルとテレーズの二人しか画面に出てこないシーンが非常に貴重なものとなっている。お互いに長くは続かないことも感じながら逃避行をするエピソードは原作でも非常に重要な部分となっているが(そしてとても悲しい)テレーズの前だからこそ見せるキャロルの笑顔が、非常に良かった。家族関係に不和を抱えるキャロルは激情的にもなるし、だいぶ年下であるテレーズの前で素をすぐには出せない。だから遠くに行き、二人だけで夜を過ごすことの尊さを一番実感していたはずだし、その瞬間に一気に情欲を見せるキャロルはセクシーそのものだった。まさに大人の名優の持つ、セクシーさだった。
テレーズはというと、彼女はまた何かを目指す途中であり、そしてキャロルほどではないが男性のパートナーとは不和を抱えている。この映画では男性のキャラクターは徹底的にネガティブに描かれる。それは原作者のハイスミスの視点かもしれないし、キャロルとテレーズがそれぞれに感じ取っていたものかもしれない。二人が逃げるエピソードはだから、それだけで非常に尊い時間なのだ。
それでも人生というのは常に逃げていられるものではない。すぐに後ろから追いかけてくる残酷な現実を向き合わねばならない。このラストが何を意味するかは分からないが、キャロルとテレーズがそれぞれの形で前に進んでいるといいなと思う。そうでなければ、二人の時間が悲しい「だけ」になってしまうから。そうではなくて、悲しくて切ないけれど、美しくて尊いものであってほしいと、願ってしまった。
一つの芸術的な形として、このようなレズビアン映画が日本でも広く鑑賞されたことはうれしく思う。現実の認知や偏見は根深いだろうが、前進には違いない。
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