Days

日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。



見:Amazon Video
Info:filmarksIMDb


 有名なやつなのでいつか見ようと思っていた1本。2024年にはfilmarks企画でリバイバル上映がされていたようで、映画館の大きいスクリーンで見るのもアリだったかなと思ったがもう遅いので仕方ない。というわけで改めて、Amazon Videoのレンタルで見てみた。ちなみに続編の『ビフォア・サンセット』も配信されているが、三部作最後の『ビフォア・ミッドナイト』だけは配信されていないのが謎である(他のサービスでも配信されていない様子)。

 ウィーン行きの列車内で夫婦喧嘩を目撃したフランス人女性とアメリカ人男性。女性のセリーヌは大学生で、旅を終えてソルボンヌ大学のあるパリに戻る途中。アメリカ人男性のジェシーはバックパッカー的にヨーロッパを周遊していて、翌日には飛行機でアメリカに帰る予定にしていた。車内での簡単な自己紹介の後に食堂車に移動し、さらに会話が弾んだ二人はウィーンで降りることにする。ホテルはとらない。そのため、一晩中歩き続けるデートをすることになる。こうしてたった一夜の、ロマンティックな会話劇が始まる。

 旅先での出会いがこんなにロマンティックな夜に繋がるなら、というのは多くの一人旅愛好者が妄想したかもしれないし、その後もこの映画の影響を受けた旅行者がいてもおかしくない。とはいえ、恋のようで恋ではない、いわば映画的だなと思うのは、二人の間には何らかの特別な感情があるはずなのに、キス以上のやりとりはない。ホテルをとらなかったから、という作劇上の必然性はあるものの、途中でラブホテルやモーテルに入ることもなく、本当に歩き続けるのだ。ロマンティックな男女ではないが、『その街の子ども』(2011年)を思い出さなくはない(正確には『その街の子ども』が『ビフォア・サンライズ』を意識したのだろうか?)。


 
 ロマンティックであるとともに、ずっと会話をしている映画だ。濱口竜介の映画か!と思うくらいずーーっと喋っている。これだけシチュエーションが整うならば、ただ歩くだけでも絵になる二人である。それでも、この二人はずっと会話を続ける。幼少期のこと、家族のこと、お互い失敗に終わった恋愛のこと、恋と愛のこと、夫婦関係の継続の難しさのこと、あるいは生きることと死ぬこと。あるいは急な下ネタ。などなど、会話があちこちに転がり続ける。いや、意図的に会話を「転がしている」とも言える。会話を転がすことで場の空気を和ませることもできるし(むろん、転がし方を失敗すればその逆だが)、お互いの持っている興味関心の幅を説明することもできるからだ。

 『その街の子ども』はむしろ会話がまばらで、「歩くこと」を重視していたのでその点はだいぶ異なるが、この映画の場合は「会話を続けること」で自分たちの存在証明をしているようでもあった。会話が続いている時間と空間を共有すること。共有するためには、会話を続けるしかない。そんな切迫感も感じるくらいには、ずっと会話を続けている。もう二度と会わないだろうという予感が最初からある二人だからこそ、「なんだって話したい」という空気がずっと流れている映画だ。

 今日の一日、一晩で相手のことをどれだけ知れるだろうという好奇心や期待が、ロマンティックのベースにある。それでも、会話をあちらこちらに転がすことで「ロマンティックになりすぎない」ように予防するのは、別れがたさを自覚しているからだ。楽しい夜を過ごしたいと言う気持ちと、楽しい夜の後に来てしまう別れが切ないという気持ち。この二つの気持ちは必然的にセットで受け止めるしかない。もちろんそうじゃないと、映画としても成立しない。

 今しかないという刹那主義にとらわれすぎると、エゴイストになったりセルフィッシュになったりするかもしれない。特にジェシーはそうなりそうな場面もあるし、セリーヌもつい言いすぎたと自覚をする場面がある(男女を巡る会話の時)。それでも朝まで一緒にいることを決めた以上、「きれいな別れ」を双方が望んでいる。この期待がある種恋愛の抑止力になり、ロマンティックになりすぎないようにしているとも言えるのかもしれない。

 果たしてきれいな別れは訪れるのか。別れの後に何が起きたのかは次を見てください、ってところですね。とは言えこれで終わっても満足なくらい、シンプルだけど濃密な構成の、歴史に残る恋愛映画だったのは間違いない。
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