見:扇町キネマ
Info:filmarks/IMDb
6月15日に扇町キネマで開催された第1回セックスワーカー映画祭で上映されたもの。この映画祭はセックスワーカー団体であるSWASHが5月31日、6月1日に東京、6月14、15日に大阪で合計4日間開催し、この映画は大阪2日目(全体最終日)に上映された2000年のフランス映画である。全編77分と長い映画ではないが、全編を通してセックスとバイオレンスが繰り出されるので、非常に疲れる映画なのは間違いない。逆に言うと、なぜこの映画は観客を疲れさせるのか? を考えるべきなのだろうと思った。
当時20代のポルノ女優、ラファフェイラ・アンダーソンとカレン・ランコムが主演し、二人が作中でもセックスワーカー役(それぞれマニュ、ナディーヌという役名)を演じている。日本で言えば中堅どころのAV女優が18禁指定の映画に出演するイメージだろうが、それにしてもセックスの描写が非常に直接的で生々しい。日本版では性器にモザイクが入っているので、AVのように挿入シーンや手コキ、フェラの描写はモザイク越しである。本国版は無修正のようなので、そういった特別な規制のない国ではそのまま上映されたようだ。他方で、wikipediaによると上映禁止にした国もあるなど、反応が分かれている映画でもある。
マニュとナディーヌは性格的に二人ともカっとなるところがあり、それぞれにほぼ同時に身近な人に暴力をふるい、殺害してしまう。その出来事をきっかけにして「逃亡犯バディ」になることを決め、パリに向かうドライブでの逃亡を重ねる中でまずガンショップで銃を購入する。そして、出会う男たちを次々と射殺してゆく。男たちはセックスの相手であったり、単なる金持ちであったりいろいろあり、特に脈絡はない。パリに向かう理由や目的もはっきりと明かされておらず、そもそもこの映画にストーリーが存在するのかどうかも怪しい。
端的に存在するのはセックスとバイオレンスの描写である、という同じことを繰り返す必要がある。ただ、マニュとナディーヌが単にむちゃくちゃに猟奇的な連続殺人期になっているわけではないということにも注目すべきなのだろう。これもかなり生々しく描写されているが、映画の序盤に集団でレイプされる場面があるのだ。この演出は非常に生々しいがゆえに(暴力を振るわれながら同時に性器を挿入されるなどする)胸糞という気持ちにさせられる。しかしだからこそ映画全体を覆うバイオレンスに一つの正当性、とまでは行かなくてもはっきりとした理由を与えることには成功している。この胸糞な描写がだから非常に重要なのだ。
もう一つ指摘すべきなのは、この映画のエンディングだろう。長い映画ではないし、明確なストーリーはない。とすれば、どのように「この物語を終わらせるのか」に監督のセンスないし思想が表れると思った。少なくともハッピーエンドは待っていないだろうが、単なる悲劇的な結末を描くだけでは意外性が少ない。そうなんだな、で終わるだけである。
この映画の結末は、言ってしまえば悲劇であり、現実である。映画祭のアフタートークでは菅野優香による解説があり、原作者のヴィルジニー・デパントにレイプの経験やセックスワーク経験があることが紹介されていた。頭で紹介したインタビュー動画でも「レイプ経験が今のキャリアを築いたと思いますか?」との質問に対して「それが主題でした。築いたというか変えたかな」とデパントは述べている(1:20-1:30付近)。レイプがなければ始まらないとするとそれは絶望的に見えるが、絶望を武器にしたのが原作者のデパントなのだろう。
同じように絶望を武器にして、銃をぶっぱなし続けたナディーヌの見た景色が何だったのか。そうしたあれやこれやを想像することの価値こそ、この粗削りで生々しい映画が、単にそれだけではない映画として残っている理由なのだと思う。どれだけ生々しいセックス描写があったとしても、この映画で「ヌく」気にはとてもならなかったし、それで正しいのだと思った。


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