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日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。



見:イオンシネマ綾川




 原作を読んだのは約5年前なのでかなり忘れてていたが、思った以上に「ケアする兄」の要素をうまく出していた映画だった。兄が全部背負わずにうまいこと周囲の人間を頼るのはいい作り方で、原作のレビューでは「チーム花楓」という表現をしているがその形をどうやって構築し、広げるかが映画の展開にも良い影響の与えていたように思う(そもそも兄である咲太ってヤングケアラーじゃんということも同時に思い出した)。

 「ケアする兄」である咲太は、自分だけで妹の傷、あるいはトラウマといった問題に向き合わない。病気の妻のそばにいるため別居している父(「ケアする夫」である)が今回頻繁に登場するのは、多くの場合アニメやライトノベルで影の存在であり、ほとんどいないかのように扱われる「主人公の両親」は普通にちゃんと存在しているぞ、というメッセージでもある。

 映画の尺の関係もあってか、「おでかけシスター」という要素はあまり生かされていない。原作の持ち味としては、普段自宅にひきこもっている花楓の行動範囲を少しずつ広げ、最終的に高校入試までたどりつけるように、という構想と実践があったわけだが、その部分はかなり圧縮されている。その代わり、前述した「チーム花楓」の構築プロセスがこの映画の主眼となっている。

 花楓を支えたいという気持ちが多くのキャラクターに少しずつ共有されることで、花楓は一歩を踏み出そうとする。しかしそれは同時に、本心を隠したままでもあった。花楓がかえでだった時代の経験と、いまはかえでではなく花楓であるという分離を、どのように処理すればよいのか、その答えを先送りにしてしまうからだ。

 あえて群像という表記をこのエントリーのタイトルに使ったのは、花楓を支える周囲のキャラクタータチは、同時に自分自身とも向き合う必要があるということ、そしてそれは青春期にあるべき課題や葛藤であり、成長の過程でもあるんだろうな、ということが映画で表現されているからだ。咲太は花楓にとって優しい。でもその優しさは、常に花楓にとって正しいわけではない。咲太が兄として振舞おうとすればするほど、花楓は逆に傷つくかもしれない。

 もちろん咲太も自分の限界はよく知っている。だから豊浜のどかや広川卯月と言った、自分にはできないことをできるキャラクターの協力が必要になってくる。では豊浜や広川は、花楓を支える(あるいはケアする)キャラクターだと言えるのだろうか。個人的にはもう少し、相互作用的に見たほうがいいのだろうなと思った。花楓をケアすることは、豊浜や広川にも何らかの形で還元される行為なんだろうなと思えたからだ。とりわけ、咲太を含めた4人で海岸で語り合うエピソードは、この4人の間で起きている相互作用をきれいに表象しているなと感じた。

 次回予告のようなラストはご愛嬌といったところだろうが、今回は「花楓の姉」的な役割を果たした桜島麻衣が、次は自分とその家族と向き合わなければならないことはすでにここで示唆されている。様ざまなキャラクターを通して現代的な家族の形や青春期の群像を示すこのシリーズがまだ映像で見られるのは個人的にはとても嬉しいので、もう少し、楽しみが増えそうだ。
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