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中川龍太郎にはオリジナルの印象が強かったが、本作と続く『やがて海に届く』は小説を原作としており、なにかしら心境の変化もしくは制作上の理由があったのだろうかと推察した。それはておき、『走れ、絶望に追い付かれない速さで』でも主人公を好演した太賀が今回仲野太賀と名義を変えての再出演となっている。
大学で考古学研究室の事務を担当する行助を太賀が今回演じているが、彼らしい静かなキャラクターをやる役回りで、彼らしい雰囲気を最後まで失わない、味のある演技が今回も魅力だ。足を引きずっている彼が過去のことも含めてあまり自己開示をしない中、溜め込んだものがぶわっと出る瞬間も含めて味わい深い。行助の相方となる女性・こよみを元乃木坂46で西武・源田の妻でもある衛藤美彩がこれも好演している。役者のイメージは全くなかったが、この映画では本当にいい表情を見せている。もっと見ていたいと思うし、太賀演じる行助がこよみのそばにいたい、と思った気持ちはよくわかる。
さてこよみのほうだが、パチンコ屋のすぐそばの屋台でたい焼きを売る仕事をしており、行助は最初常連客としてこよみと接していた。ある日距離が接近した二人は一緒にたい焼きを食べて、帰路をともにする。そしてそのあとに、悲しいことが起きる。その後のこよみを支える行助の姿を見ていると、『青春ブタ野郎』シリーズで引きこもりの妹を情緒的にサポートする兄・梓川咲太の姿が思い浮かぶ。途中から「同居」することになるこよみと行助は、一般的に言えばカップルであるし、「同棲」と言っても良い。ただ、そういう単純な理解でよいのか? という問いを残す。
そのあたりの「曖昧な関係性」を、研究室の大学院生である真理(三浦透子)に何度もツッコミを入れられるが、そのツッコミに行助がイラっとするのは自分すらどうしていいかがわかっていないだろう。ただの知り合い以上の関係になりたいという気持ちがあるから、こよみの過去を知る年上の男性(萩原聖人)の登場にざわつく。
同居を開始したあとも静かに進んでいく物語は、その静けさゆえに情報量が少ない。行助もこよみも、過去のことはほとんど語らない。ある日の会話で、こよみが過去にピアノをやっていて、音大にするか普通の大学にするかを迷ったことがある、というエピソードだけが印象に残る。なぜならばこの映画は、序盤からずっとピアノの音が流れているからだ。時に優しく、時にもの悲しく響くその音色がなければこの映画は成立していないのではないかというほど、ピアノの音がずっと響いている。高木正勝によく似ているなと思いながらエンドロールまでたどり着くとまさにその高木正勝だったので、相変わらずいい仕事をするなと恐れ入る。
さて梓川咲太もそうだったように「ケアする男性とその困難さ」を表現するのがこの映画の後半の展開だ。優しさ、気配り、粘り強さ。感情労働に近いものを、家庭内で継続することは容易ではない。その容易でなさは時に感情のぶつかりを生むが、これくらいぶつかった方がきっと健全だろうなと思いながら見ていた。「ケアする男性」も一人の人間だし、そして多くは不完全な人間だ。不完全だからこそ、他者と生きることを選ぶのかもしれない。
ケアするだけでなく、自分がケアされる側でもあったということ。その、する/されるの往復が日常生活を形作るということ。それを続けることがいかに難しくて、でも優しくて、尊いかということ。行助もこよみも、お互いのために生きたいと思っている。でもそれがうまくいかない時だってある。だから時には「ぶつかり合うコミュニケーション」も重要だし、必要だったのだろうなと思うのだ。互いに不完全であるからこそ、ぶつかり合いながら、また補い合えれば良い。
日常の継続性を祈っていたのは、行助だけではない。同じ場所でずっとたい焼きを売り続けるこよみこそ、祈り続けていたのではないか。かつては一人で、そして今は二人で。
◆関連エントリー
・自分と関係ないところで死なれたくはない ――『走れ、絶望に追いつかれない速さで』(2015年)
・夢が終わるまでの日々 ――『四月の永い夢』(2018年)
・居場所と自分探しを、ゆるやかに ――『わたしは光をにぎっている』(2019年)
・失われることへの反発と、二重の追体験を通した追憶 ――『やがて海に届く』(2022年)
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