見:Amazon Prime Video
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1985年制作の古い映画で、日本は1991年に公開。また、2022年にもリバイバル上映されていることが分かった。アニエス・ヴァルダという監督についてもあまりよく知っているわけではないが、冒頭から数分ですでにこの映画の主人公である18歳のモナが凍死していることが明かされ、それはどういうことなの??? と思い、見始めた一本である。もう一つの理由としては意外性を活用したかったから。少し前に『ノースバイカレント』を見た時にも思ったが、Amazonが薦めてくる意外性のある映画を見るのも、自分の視野を広げる上では大事なことだと思ったからである。
家出に近い形で親といた自宅を離れ、あてもなく放浪し、最後には死という形を迎える。フィクションとノンフィクションの違い、時代や国の違いはあるが思い出したのはアメリカ映画の『イントゥ・ザ・ワイルド』(2007年)だ。これはもともとジョン・カラカウアーの書いた本を映画化したものなので(原作は未読)、内容の密度は濃いものとなっている。「何者かになりたい」という主人公の若い男性の野心とその挫折が描かれた映画だ。
対して今回見た『冬の旅』は、そうした大それた野望のようなものはないし、『イントゥ・ザ・ワイルド』のように最終的にアラスカに行くんだ、というゴールも提示されない。フランスのどこかをモナが徒歩でさまようだけで、彼女が歩いた土地の名前も明示されない。冬とは言え、荷物を背負って歩いているだけのモナはテントで野宿をしたり、牧場や教会のスペースで泊めてもらったりするだけなので、身なりがどんどん汚れていく。実際に「汚い」とか「臭い」という、18歳の少女が通常かけられないだろう言葉を浴びる。そこまでしてモナは何を得たかったか?
また、社会の親切さと冷たさの共存する映画でもある。身なりが汚れているとはいえ、たった一人で行動する18歳の少女を構おうとする大人たちは多い。しかし、多くの場合は裏の理由がある。それは、労働力としてモナに期待している点だ。しかしモナはそもそも「自由になりたい」という一点だけで家を出た。働いて金を稼ぎながら旅をするというビジョンを、モナは持っていない。その無計画さは現実的ではないとは言え、「しがらみから離れたい」というモナの欲求は容易に否定できない魅力もある。だからこそ、親切さが提示されるのかもしれない。
同時に、モナを批判することはすごく簡単なことだなと思う。働きたくない、自由になりたい、楽に生きたいとあまりにも素直に語るモナに対して「甘えるな」と言葉を返す男性も登場するが、少なくともモナよりもだいぶ年上になってしまった自分も同じ感覚を覚える。しかし同時にこうも考える。映画で出会う人たちも、この映画を見ている観客も、モナのことはほとんど何も知らないはずだ。それでいてモナを安全圏から批判、非難することは果たして倫理的に妥当だろうか? という問いが生まれる。
前半に比べると後半は人の縁に恵まれる。だが、目的がないモナにとってはいずれの利他的行為に対しても、中途半端にしか受け取れないジレンマもある。そう考えると、この旅をつづけた時点で結末は決まっていたのだろう(だから開始すぐに明かされる)。むしろこの映画は放浪する18歳の少女というフィルターを通して、少女の外側にある世界を撮ろうとしたのだと解釈した方がいい。
『イントゥ・ザ・ワイルド』は自由と責任の映画だったと解釈しているが、この映画は不自由と無責任の映画だった、と言えるかもしれない。モナは生まれた家からは自由になったが、その日の寝る場所にはずっと不自由し続ける。十分な金銭もないから、食事代すらままならない。自由とは遠い生活であり、そんなモナに対して誰も責任を持たない。モナ自身もまた、セルフネグレクトのような形で荒廃してゆく自分の生活を制御できない。だからこれは、不自由と無責任を見せつけられる映画だ。
また断続的にだが、モナと関わった人たちの短いインタビューが挿入される。誰がカメラを回し、誰が話を聞いて回っているのかは明かされない。モナはもうこの世にいない。だが、「モナがこの世にいない」という現実がなければこの短いインタビューはどれも実現しえない。これらの映像もまた、無責任の形を集めたという証明なのかもしれない。

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