見:イオンシネマ高松東
Info:公式サイト/filmarks
同名のマンガを映画化したもの。今年公開というのは、戦後80年に対する意識もあったかもしれないし、自分がこの映画を見た日(12月8日)はパールハーバーの日でもあった。今年というだけでなく、12月の公開になったのにも意味がありそうだ。1944年、海からやってくるアメリカ軍からペリリュー島を死守するための戦い(ペリリュー島の戦い)がテーマになっている。
そして、この映画はアメリカ軍による攻略戦が終わったその後の様子まで含めて映画は1947年まで続く。ほとんど玉砕戦の前半も地獄だが、1945年8月の終戦後もすぐに助けが来る訳ではないため、持久戦を強いられる後半にも別の地獄があった。閉ざされた島に居座る限り、終戦したことを知りようがないのだ。これに関しては現場の兵士を責めるのも酷で、当時の軍国主義が多くの若者たちを犠牲にしたことだけがヒリヒリと伝わってくる。
前半はアメリカ軍の上陸を迎え撃つ作戦だが、これが作戦と言えるほどの戦いではないことを知るのはもっと後になる。ではなぜ、島の西浜エリアで一つの部隊がほぼ全滅するほどの苛烈な戦いを強いられたのか? 最大の理由は、勝つことが目的化されていない点にある。この映画では何度も何度も「生きて虜囚の辱めを受けず」という標語が繰り返される。最初の最後まで、この標語が大いなる呪縛となって兵士たちの行動を抑制する。
合目的に考えるならば、海から大挙してやってくる敵を迎え撃つのは不可能だ。どれだけ上手くやっても玉砕する展開にしかならない。せいぜい先発隊のアメリカ兵士の何割かを殺す、もしくは負傷させることしかできない。全滅は避けられても、味方の兵士を多く失うことになるだろう。実際にこの映画で展開されるのも、そうした場面だ。アメリカ軍は数が多いだけでなく、戦車、砲弾、散弾銃、火炎放射器といった形で武器のレベルも日本兵とは比較にならない。ほとんど死ににいくようなものだが、それが「名誉ある死」として回収されてしまうのである。
この流れを踏まえてようやく、後半に展開される別の地獄が見えてくる。降伏が絶対に出来ないとすれば、ペリリューのジャングルで耐えて生き残るか、力尽きるかの二択しかない。現代の発想からすると、あまりにも非合理的な作戦に邁進せざるを得ないペリリュー残党兵たちの苦悩が見えてくる。例えば抵抗を続ける仲間の何人かは感染症に罹患し、命を落としてゆく。ジャングルの敵はアメリカ兵だけではない。そうした苦悩と反するように、すでに終戦して戦場ではなくなったペリリュー島では元住民の帰還事業が行われたり、美しい自然や野生の風景が何度も映し出されたりする。こうした演出は、残党兵たちの孤独と孤立を象徴しているようでもあった。
この映画はそして、見ている者の態度を試される映画だ。天皇陛下万歳というイデオロギーに殉じた若い兵士たちに同情しつつも、日本が侵略国だったという歴史的事実も思い出し必要がある。純粋化、先鋭化したイデオロギーは合理性を喪失させ、平和を遠ざけ、そして多くの命を奪う。そしてこれはただの歴史映画なのではなく、ウクライナで、ガザ地区で、あるいはシリアでも、つまり現代でも同じことが起きている可能性も想起する必要性を喚起させる映画でもあるだろう。
もちろん現代と1940年代とでは情報環境も国際情勢も異なる。しかしながら、いつだって犠牲になるのは最前線の兵士であり、多くの民間人だ。そして戦争の終わり方、終わらせ方はいつの時代でも容易ではないということを、現代を生きる私たちはよく知る必要があるのだと思う。

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