この前レビューを投稿した『王とサーカス』以前に、米澤穂信は太刀洗万智に関する物語をいくつか書いている。そしていま売りの『ダ・ヴィンチ』で初めて知ったが年内に一冊としてまとまるらしい。
そんなことは知らずにわざわざ図書館で探したのだが、今回書く「ナイフを失われた思い出の中に」
については非常に読み応えがあったのでとても満足している。一つは、『さよなら妖精』より15年後へと続いていること、そしてつまり『王とサーカス』よりは5年後であること。この二つを勘案しつつ、いまあえて『王とサーカス』後の太刀洗万智の物語として読むのなら、単に『さよなら妖精』の15年後という意味以上の意味を持つのではないか。そんな気がした読書体験だった。
「失礼、お見苦しいところを」という短い小説を載せた『ユリイカ』の米澤穂信特集が2007年発売なので、ほんとうにようやく一冊になるということだが、このシリーズの時系列としては最初になる『王とサーカス』を刊行したあとに一冊にまとめるというタイミングはいろんな意味で正しいのかもしれない。
ちなみに、「失礼、お見苦しいところを」はニコニコでノベルゲーム化されていて、こちらもなかなか面白い。
さて、「ナイフを失われた思い出の中に」は2010年に東京創元社より刊行された『蝦蟇倉(がまくら)市事件〈2〉』という架空都市での事件をモチーフにしたミステリアンソロジーに収録されている。あれから15年後の太刀洗万智を訪れたヨヴァノヴィッチ、と書けば『さよなら妖精』の読者としてはすぐにピンとくる。あの人しかいない。あの人がいま太刀洗とどういう会話をするのかについての興味を、いきなりかきたてる。しかし、どうやら『王とサーカス』で初めて太刀洗の一人称に踏み込んだらしく、この短編も例によって太刀洗の目線からは書かれない。あくまでも対象として、客観的に書かれている。結果として、だからこそ面白い部分と、だからこそ知り得ない部分が混在している。
この短編では弟の姉殺しという事件を題材にしており、未成年者による家族の殺人はこれも例によってセンセーショナルな話題として扱われる。家庭内の不和や10代なりの不安や不満が動機として想定できるが、太刀洗によると不可解な点もいくつかあるらしい。彼女の目から見て説明できないこととはなにか、それをヨヴァノヴィッチは蝦蟇倉市の各地を太刀洗とめぐりながら思いめぐらす。
ヨヴァノヴィッチは太刀洗から事件に関する不可解な点と太刀洗のこの事件に対するスタンスを一通り聞いた後、次のような見解を持つ。
太刀洗女子の言葉はロマンティシズムを排した冷徹なリアリズムから発せられたように聞こえる。(p.303)
ヨヴァノヴィッチはこのあとはっきりと失望という思いも抱くが、冷徹なリアリズムしか持ち得ない人間に対しては確かに失望を抱きかねないだろう。この直前にわたしたちのような仕事は何だと思いますか?という問いかけを太刀洗は投げていて、これは『王とサーカス』におけるある対話を思い起こすと5年間の間に太刀洗が積み上げたものをいくらか推察することができる。『王とサーカス』が教訓になっているように(もちろん、「ナイフを〜」の地点から逆算して米澤は太刀洗の過去を創作したはずである)。
ロマンティシズムとリアリズム。これを対立するものだとこの時点でのヨヴァノヴィッチは考えている。もしかしたらかつてのマーヤも、出会った当初の太刀洗について同じ感想を持ったかもしれない。太刀洗としては、『王とサーカス』での最後のサガル対話に見られるように、素朴に「知りたい」という気持ちが自分自身を駆動させているはずだ(15年間ずっとそうだった、かどうかまでは分からないとしても)。なので、知りたいというロマンティシズムと、知るべき、知りうるというリアリズムをいかに合致させていくかという葛藤が、常にあるのではないか。この葛藤を上手に見せる術を太刀洗は持っているわけではない。結果として人を試すように、一つずつ手の内を明かしていくこと。その先でどう思われるかが、もっとも重要だったのだろうと思う。
事件そのものの話はこれも例によって悲しい事件ではある。その悲しさと、太刀洗がかつて経験した別れの悲しさは同質ではないが、手の届かない引力によって家族が引き裂かれる悲劇を共有してしまっているとは言えるだろう。素朴でありながらやたら凝って書かれた手記の文章が重要なテキストとして読まれること。それを読み解く行為というのは、まさに守屋と白河、そして太刀洗がかつてマーヤについて試みたことの延長ではないだろうか。(ちなみに『氷菓』こそ徹底的なテキストの読解としてのミステリーであるから、米澤の原典かもしれない)
ヨヴァノヴィッチは太刀洗についての評価を最終的には改めることになるが、最後に交わされるいくつかの会話はいかにも太刀洗という部分が垣間見えてとてもにやりとする。ただ、あくまでここで登場するのは『王とサーカス』を経験したあとの太刀洗だ。ライターとしてリアリズムに徹しなければ身を失いかねないという前提の上で、とはいえロマンティシズムを完全には排除しきれない。4W1Hを駆使しながら、どこまでイシューを記述するのか。自分の仕事を目にたとえたシーンの会話は非常に秀逸で、『王とサーカス』を読み終えてからこれを読むとちょっとした震えも感じるほどだ。
『ダ・ヴィンチ』9月号のインタビューで米澤はビルディングス・ロマンを書きたいと述べている。その上での青春小説、そしてその先へとしてのベルーフシリーズ。妖精自体の続編なんかいらないと思っていたが、太刀洗のその後を読むのはなかなかに面白かった。秋に予定されているシリーズの短編集刊行がいまから楽しみでやまない。
関連エントリー:10年後の太刀洗万智が確かにいた ――米澤穂信『王とサーカス』(東京創元社、2015年)(2015年8月8日)
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