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日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。



千年も前の歴史のなかに、こんなにも多くの反異性愛主義の理論を試行するための物語が確かにあって、今の世界を挑発しているのである。 (本書p.259)


 本作の「おわりに」の末尾に書かれている文章からの引用だが、読者として本書を読み終えたあとにこの一文がくるということのカタルシスはなかなかのものがある。千年も前の歴史「なのに」とも言えるし、千年も前の歴史「だから」とも言える宮廷物語の数々は、確かに現代を生きる人々の貞操観念や性への意識を挑発しているともとれるだろう。
 本書では源氏以降の物語としてつらなる数々の物語(時期的に平安後期〜鎌倉期)をとりあげ、現代の異性愛主義とはまったく異なる性の物語に折り入って行く。
 とりあげられるのは『とりかへばや物語』や『とはずがたり』、あるいは『狭衣物語』といった、古典の教科書にはなかなか載らないかもしれないが文学史や日本史の教科書などで名前くらいは聞いたことのある物語だ。

 いわゆる源氏の亜流として軽く見られがちなこれらの物語が、実は多様な性を真正面から記述した物語であることを木村は改めて再評価する。
 よって、木村の立場は古典文学の研究者としての側面を保ちながら、ジェンダーやフェミニズム、あるいは女性学の立場からの分析がクリティカルに展開されていく。したがってフーコーやアガンベン、セジウィックやバトラー、そして上野千鶴子といったように、その筋の名前が頻繁に取り上げられ、議論が進行していくのだ。

 さて、千年も昔にホモセクシュアル(木村は女性同士の性愛である「レズビアン」を含んだものとしてこの用語を用いている)が生じた理由はどのようなものか。その前に、宮廷には宮廷独特の「<性>の制度」と呼ばれるものが存在したことを木村は指摘する。
 宮廷における「<性>の制度」とは、権力と密接に関係する<生む性>と、権力とは離れたところで生じる<生む性>の二種類の性に分かれており、<生む性>はそのまま権力の再生産に関わる性ということになる。であるならば、<生む性>は特定の女性に限定されるはずで、<生まない性>はそれ以外なのでは、という単純な発想は本書のなかではすぐに棄却される。(棄却されるための物語が例示されていく)
 木村の言葉を借りると、「『出産能力』は<生む性>に一致しない」(p.30)のだ。<生む性>が出産能力を持たなくても、結果的に権力を<生む>ことだってありえるからだ。

 このような前提で『とりかへばや物語』においてジェンダーの交換を行う兄妹を見る視点も変わってくる。兄妹は異性装を行うことで互いのジェンダーを交換したまま宮廷生活を送っていくし、異性装であることで実質的にホモセクシュアルな欲望にさらされる(形式的には、異性装なのでヘテロな欲望である)
 しかしこのことが直接権力の再生産に関わるかというと、そうはならない。なぜか。というあたりの顛末を兄妹がどのような存在として見られ、権力に接近するかというプロセスをあぶり出すところに本書の魅力があると言っていい。
 そのプロセスでは<生む性>/<生まない性>という区分以外にも様々な分断線が引かれることになるわけだが、性と権力をめぐる数々の分断線はいかに多様な性愛のあり方が(物語というフィクションの中であるとはいえ)存在してきたかがよく分かる。そしてそれらのあり方が存在するということは同時に、書き手や読み手の欲望すら見えてくるのだ。
 このように木村は非常にスリリングに源氏以降の古典を読み込んでいく。源氏自体が持つ性愛のファンタジーとは別の次元で、様々なファンタジーがありえたかもしれないということを実感させられる。その予感はなによりも、宮廷や寺社という舞台設定と、実際に存在した「<性>の制度」に則って書かれているからであり、フィクションで書かれたことそのままが存在しえないにしても、起こりうるだろうことは十分に想像できる。

 宮廷も寺社も当時の一般庶民の生活からするとごくごく限られた社会でしかないとは言え、現代の異性愛主義とは遠く離れたところにある「<性>の制度」を読み解くのは非常に面白い。同性愛を認めてしまうと社会が壊れてしまうとかいう一部保守勢力の戯れ言なんて、むしろそんなことのほうがありえないのでは、と思えてくる。
 もちろん、千年も前の歴史が現代の規範と異なること自体は不思議でもない。重要なのは、その時代の性のありかたが現代においてどのように読むことができるかであろう。
 だからこそ、「挑発する」数々の物語をいま改めて読み返すことで、千年前の著者や読者の地平に立つことができるし、ある意味現代の「<性>の制度」の悠に先を行っている人々の歴史として読むことの面白さもある。
 あるいは、二次創作で使われるたいていの設定はすでに誰かが過去に書いているとは言うものの、フィクションでしかありえないことが現実でも無理なくありえたのでは? という予感を地に足ついたものとして読み解くのが本書の文学研究としての魅力だ。魔力だと言っていいかもしれない。とりつかれるような、そういう心地。

 だから本書を読んでいると、帯の上野千鶴子の言葉を借りるまでもなく、非常に「ぞくぞく」するのである。
 いい意味で、日本の古典はおそろしい。「ゆゆし」とはこういうときに使うべきなんだろうか。とりあえず『とりかへばや物語』と『寝覚の上』は今度読みたいリストに加えておきます。







 木村朗子の著作については以前『震災後文学論 あたらしい日本文学のために』という本のレビュー記事もあげている。よろしければこちらもぜひ。
困難さに立ち向かうこと、あらがうこと ――木村朗子『震災後文学論 あたらしい日本文学のために』(2013年)



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