Days

日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。

 NHKのBSプレミアムで毎週金曜日に放送している「新日本風土記」という1時間番組がある。(*1)
 紀行ものでもあり、ちょっとしたドキュメントでもあり、といった番組で、土地の風景と人間模様という俺の好きなものがふたつも組み合わさっているので毎回見るのを楽しみにしている。1年前の番組改編で始まった番組だが、今年も生き残っているのを確認したときは本当に嬉しかった。


 
 この番組の特徴はいくつかあるが、ひとつは今回の表題にもした「物語を掘り起こす」という趣旨があるんじゃないかと思っている。
 風土記と題しているだけあって、土地に根付いたものを毎回放送するわけだけど、歴史的にそれこそ太古まで振り返ることもあれば戦前戦後までのときもある。いずれにせよ、いまあるところから物語的に辿ることのできる歴史を、毎回土地を変えて放送している、というのが特徴。
 で、そういうのって一定程度歴史的な土地に限るんじゃないか、と最初は思っていた。実際最近の放送でも吉野や熊野が扱われたりするだけあって、ある程度何が来るかは予想できるところがないわけではない。ないわけではないが、あくまでも(ここが一番の醍醐味だと思うけど)ありのままのいまを伝えようとする。
 ありのままのいまを伝えようとするときに、しばしばその土地に住む人々の物語が語られる。いわば歴史的なものと対比すると小さな物語、といっていいのだろう。ただ、歴史的なものや土地に根付いた風土的なもののなかで改めて語り直そうとしているのが面白い。21世紀になったとしても、思ったよりもわたしたちの生活は非歴史的なものではないじゃないか、と思わざるをえない。
 儀式や祭といったハレの行為はその典型だろう。あるいは、日常的な行為であっても外の目線をはさむことで新鮮にうつることは多い。風土性が高くローカルなもの、はユニークネスになりうるからだ。

 時々膨大なNHKのアーカイブが番組の中に挟まれるのだが、そうやってNHK的には過去と今を照らし合わせようとしていることが伝わってくる。ありのままいま、というのは時間的に、そして空間的に丁寧に切り取ることで新しく表現することができる。
 もうひとつ、NHKの強みなのは全国津々浦々、横断的であることだ。この前「桜前線の旅」という回があったのだが、南から北までその土地に特有の様々な桜と、桜を見る人々を映し届けるというたぶんNHKにしかできないだろうことをやってのけていた。
 最近はまとまった旅行というものができていないので、番組を通して追体験した気分にひたっている。それが終末金曜日の夜というのはなかなか悪くない。

*******

 ここからはほとんど思いつき。希望的観測もちょっと入り交じった感じの文章になるかもしれないがご容赦。最近某所でげんえいくんと都市とか地域とかのお話をすることがあって、そのあと少し考えたことをとりあえずまとめてみた。(*2)
 もう少し、土地と物語についての思いつきをだらだらと書きつづってみる。

 土地の住民の高齢化だとか、若い人の減少などでじょじょに語られないようになる物語があったとして、そのいくつかはただ埋没するしかないというのが、これからの地方が経験することではないか、という感覚がある。
 文化や産業の担い手がどんどんいなくなる、というお話でもあるが、単純に人が減っていくということは今まであった様々な営みの継続性に、程度の差はあれど危機が生じてくるのではないか。小さく、保守的な土地やコミュニティであるがほどに、継続性は重要である。
 たとえば3.11と東北。3.11後に語られた東北地方の沿岸部の物語を、皮肉なことに3.11をきっかけとして知ることができたという部分は大きい。これは天災というケースであり例外的で大きなショックとも言える。逆に言えば、物語は天災によってあっというまに失われていく可能性もあるということを示したともとれる。これから先はどうなっていくのだろうか、というと未来はきれいに開けてはいないだろう。あれから15ヶ月が経ったわけだが、外の世界ではだんだんと記憶が薄くなっていくばかりだ。
 もちろん、栄枯盛衰というほど大げさではないが、時間の流れ(震災は特別な事象ではあるが)に逆らえない部分も大きい。そうなっていく、ということに個々の人間が抵抗することはそれほどたやすくない。資本主義的合理性が強力だからとかそういう話とは無関係にしても。

 だからといって過度に情緒的になる必要はない。情緒的になって未来に何かを残していきましょう、と大声を上げるのは一面的なものであって個人的にはあまり好きではない。そうではなくて、NHKが番組の中でカメラを回し続けるように、誰かのフィルターに依存することになったとしてもありのままの、誰かがそこで生きていた証のようなものをアーカイブしていくことが重要ではないのかな、と思っている。
 最近「リトケイ」(「離島経済新聞」の略称)というミニコミのようなものを初めて知ったんだが、この中では日本にある有人島の生活がミニコミという性質上ほんんの少しずつではあるが語られている。外の人間によって掘り起こされている、といってもいいと思う。広告的な色合いが濃すぎると忌避したくなる感覚があるのだけどね。最近ちょっと島ブームみたいなのがあるし。(*3)
 簡単に言うと、伝えられるものは伝えていく。まだ掘り起こされてない物語をひとつずつ記録していく。そうやって土地と時代のリアリティを残すことと、次の世代に受け継がれていくことがその土地にしかないダイナミズムを生んでいくような気もしている。
 あるいは、次の世代に受け継がれないにしても(物語を拒否する自由はあるだろう)当該の土地の外の人間に何かを伝えることもまだまだ可能だと思う。P.A.WORKSが「花咲くいろは」や「true tears」でやろうとしたことに、ちょっとヒントがあるような。彼らの試みは、実際の土地を舞台にしているというだけの聖地巡礼にとどまらないだろう。

 単に伝えることや表現することに意味があるというわけでもない。ひとつ思いつく価値は、次の世代や後生にいまのリアリティを届けること。そしてその中の誰かが憧れのような気持ちを抱くならもうけもんだし、もっと一般化していうと次の世代の人たちが人生設計や職業選択をしていくなかで、そのヒントとしてより具体性を与えられるのではないか。
 地方や田舎で暮らそうみたいなブームがあるようなないような気がいろんな媒体に触れていて思う。だけど、単なるイメージや憧れにとどまらず、もっとプラクティカルな実際的なところに落としていかないとイメージや憧れに実際に辿り着くことは難しいんじゃないか。要は、どうやってそうなるの、という話をもっともっとしていかないとふわっとしたままで終わってしまうんじゃないかな。
 こういう試みは最近だと自治体やNPOなんかが職業体験的なことや移住促進の取り組みはしているし、そういったところにアクセスしやすくはなっているだろうな、とは思う。まあ上にあげたリトケイのようなミニコミなんかも含めて、具体的な情報を発信する試みと、実践の機会を提供するという試みがどんどん広がっていけば個人としては学卒→企業に就職、以外にもいろんな可能性が生まれるかもしれないし、都市部と地方の差を少しでもやわらげることにつながるかもしれない。
 
 最後は少しメディアやコンテンツの話になってしまったが、素朴に語る行為も意味があると思う。誰かに何かを伝えるために時間と労力を割くのはそれはそれで価値があるが、近くの誰かに語るというシンプルな行為を忘れないでいることも、ただでさえソーシャルな時代にはそれなりに意味があることなのではないだろうか。クチコミマーケティングがそうであるように、身近な人の影響力は軽視できないからね。

*1 正確には58分ほど。2011年4月にBSプレミアムで放送開始。定期的に放送しつつ途中で再放送をはさむというNHKらしいスタイルなので一回見逃してもあとで期待できる番組でもある。

*2 記事を書こうとしたきっかけは彼との会話だったけども、ここで書いた内容(新日本風土記含む)はここ1,2年くらいぼんやり考えてきたことでもあった。ゼミでは地方自治論を専攻してたので、おのずと地域社会や都市論のような具体性を持った土地の話を扱うことが多かったし、より興味関心を持つようになった。その中で言えば彼とかあの人とか、よりリアルなイメージを持ってきてくれたことが今になってみると大きい。東京にいてここではない場所のリアルさを感じる機会は、そうそうあるものじゃない、と。あとになってみて改めて思う。

*3 宣伝というわけではないが地元の小豆島での試みだと去年あたりから「小豆島ガール」というサイトの人たちがいろんな活動をやっているようでブログもわりとちゃんとチェックしている。時々知ってる人が出てくるし。リトケイのvol.1でも取材を受けていたようで有名になったんだなあと思った。
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